東山山中 茶花の咲く花畑(初春・春編)と鎌をかたどった餅菓子-寺町今出川「花フジ」生花店/大黒屋 鎌餅-[京の暮らしと和菓子 #32]
一年という刻の流れを実感できないまま否応なくカレンダーは、最後の一枚となりました。新型コロナの感染拡大により、多くのものが停止、変更となり、また先行きの見えない不安に覆われ続けた今年。
春の自粛期間前から、京都の年中行事は次々に中止や縮小を余儀なくされてきました。大学も未曾有の事態の連続となった一年だったのですが、その業務の合間に、じつはある場所に写真を撮ってくれる高橋さんと一緒に出かけて、自然の営みを記録してきました。
ある場所とは、東山山中にある花畑です。それは、寺町今出川にお店を構えておられる「花フジ」生花店のご主人藤井一男様が茶花などの山野草を中心に育てておられる花畑で、私は勝手に「秘密の花園」と呼んでいます。
遠隔授業の構築の仕事に慣れていない私にとって、今年はことに初体験の仕事の連続に多くの時間を費やし、残念ながら四季を記録するということは到底叶わなかったのですが、垣間見た初春、春、初夏、そして秋の「秘密の花園」には、確かな自然の暦が刻まれていました。
今回は、そのうちの緊急事態宣言の出る直前と自粛期間の只中に出向いた3月4月の山の花畑の様子を、ご紹介したいと思います。
そして今回の和菓子は、その畑仕事の道具でもある「鎌」にちなみ、「花フジ」さんのお近くにある「大黒屋」さんの「鎌餅」をご紹介したいと思います。
1.京都ならでは、茶花を扱う生花店「花フジ」さん
「花フジ」さんとのご縁は、40年くらい前に遡ります。その頃習っていた桑原専慶流の岩田慶寿先生の元、門弟の華展を催すことになり、先生宅に花材の相談においでになっていたのが、「花フジ」さんの奥様でした。私は、末席で打ち合わせのお話を、ただ拝聴するだけでしたが。
京都には多くの華道家元がおられますが、その各流派の華展には、豊富で、美しく、また特殊な花材を揃えるために奔走してくださる生花店が欠かせぬ存在です。「花フジ」さんもそうした仕事を担われているお店のひとつです。
そしてまた、茶道のお家元をはじめ、各所で行われる茶会、茶事などで用いられる茶花を扱うお店があるのも、京都ならではの特色かもしれません。
茶花は、促成栽培などで年中大量に供給されるものと違い、時季にあったものでなければならないのは言うまでもなく、朝咲いて夕方には窄んでしまう一日花や、少し膨らんで咲きかけたばかりの頃合いの蕾、花材どうしの取り合わせ、花器との釣り合い、姿のよしあしなど、茶席のその時、その場に最適なものが、ほんの数輪だけ求められます。
その調達の難しさは、言うまでもありません。一輪のために、いくつも集めたものの中から選びとられることも、また早朝に摘みに行かねばならないこともあります。
じつは、40年前には存じ上げなかったのですが、そうした茶花の品揃えでも、ことに定評のあるのが「花フジ」さんなのです。
それを実感するきっかけは、お茶には何の縁もない亡き父でした。阪神大震災で、伏見の実家の座敷の壁に亀裂が入ったのをきっかけに、リウマチを患って不自由なことが増えていた母のために、老夫婦二人して、左京区の耐震設計のしっかりしたマンションに移りました。その後実家は改修しましたが、二人はそのままマンションで暮らしました。
そうした晩年の父は、今の太陽暦が年中行事の暦にあっていないことを憂い、町家での暮らしがマンション住まいにかわったことで余計だったのかもしれないのですが、二十四節気を大切に暮らすことを心に決めていて、節気ごとに自室の掛け軸を変え、「花フジ」さんに季節の花を買い求めに行くのでした。花は、自分で選ぶのでなく、必ず花フジさんの奥様にお任せ。その選びとられた花を無造作に入れていました。
たまたま節気の日などに父の部屋に行くと、
「今日は、寒露や。それでな、この花は・・・」などと、「花フジ」さんにお教え頂いた花の名を、解説してくれるのでした。「花フジ」さんのおかげで、伏見にいる頃にはできなかった新たな楽しみを覚えたのでした。
「花フジ」さんの選んでくださった季節の花は、ほぼすべて茶花でした。その頃の私は仕事と子育てに追われて、お茶のお稽古も長い中断の時期でしたので、父の部屋で、季節の茶花に出会えることが楽しみとなっていました。
その亡き父のご縁もあって、ご主人の藤井一男様や奥様には、いつも親しくお花のことをお教えいただき、数年前からは、大学の教職員茶道部に所属したため、その茶室に活ける茶花を頂きにあがることも増えていました。
そのおりに、
「山の畑、また見に来たらええよ」と言ってもらったのでした。
その山の畑こそ、茶花を中心に、いざという時の花材を育てる「花フジ」さんのバックヤードだったのです。その在りかを明かすことはできませんが、今年、東山山系の中腹にある「秘密の花園」に、足を踏み入れることができました。コロナ禍にもかかわりなく嫋やかに咲いた山野の花々をほんの少しご覧いただければと思います。
季節を彩る茶花は、また季語になっているものも多いものです。幾つかの俳句と共に改めて季節の趣を味わっていただければと思います。
2.早春の花咲き初めて 3月19日
黄は日射し集むる色や福寿草 藤松遊子
京都芸術大学の通信教育部では、卒業制作展、卒業式なども夏期までの延期とされ、3月の行事がすべて止まってしまいました。
さらに何をどのようにして新学期を迎えたら良いのかも、なかなか見通しのつき難い日々が続いていました。
そんな折りの3月19日、たまたま高橋さんと一緒に寺町に出かけた帰り道、通りがかった「花フジ」さんの店舗に顔を出し、よもやま話をしながら、お山の花畑を撮影することは可能でしょうか、季節はいつぐらいがよろしいのかしらとお尋ねしたのでした。
「まあ、何回も行かんと、一度ではそないに撮れへんよ。一年かかるかも知れんしね」
と、私の愚問にさらりと答えられ、
「それならこの足で行ってみようか」と、
いともやすやすと、ご主人自ら車を出してくださったのです。
つづら折りの道を車で登り、こんなところにという山中の花畑へお連れいただきました。小川の流れる山あいの地は、まだ春浅い冷気に包まれていましたが、落ち葉に覆われた土の中から福寿草が蕾をもたげていました。鉢植えが、縁起物としてお正月の時期に出回っていますが、自然の中では、早春に開花期を迎えます。
そして目をあげると、小さくも、しかし目をひく黄色の花の咲く梢が、あちらにも、こちらにも。葉が出る前に花をつける木々のなかでも、黄色の花をもつものは、まだ色の少ない山野に春を告げる風情があります。
枯色に山茱萸の黄の新しや 高木晴子
連翹の黄は近づいてみたき色 稲畑汀子
たて書きの詩のごとくあり花きぶし 和田順子
薄い黄みどり色で、色目は目立たないでのすが、長く垂れる花房が独特の木五倍子(キブシ)は、またその花の姿から「通条花」とも書きます。
数輪が咲き初めたばかりの一枝、ちょうど今くらいの花が茶席では好んで用いられます。
そして、ご主人が「ほら、これがカタクリ」と出てきたばかりのまだ短い葉を教えてくださいました。
「花はまだ先やけど、鹿が新芽をつぎつぎに食べてしもて・・・。そら、カタクリはうまいやろなあ」
と溜め息をつかれていました。
柵を高くしたり、いろいろな手立てをされているようですが、それを掻い潜ってどこからか侵入するらしく、よく見ると片栗だけでなく、あちこちに芽や葉先のなくなった草木が点在していました。今年はとくに鹿の食害が多いとのこと。山に食物が減っているのか、鹿が増えすぎているのか。
片栗は、種子が発芽してから初めて花が咲くまでに8年から9年かかるといい、かつてあった各地の群生地も、現在、徐々に失われていて、例えば高知県では最も深刻な絶滅危惧種ⅠA類に指定される植物となっているのです。
この片栗の葉も鹿に食べ尽くされてしまうことのないように念じながら、次は花の咲く頃を目指すことにいたしました。
ありがたいことに、次回は私たちの都合の良いときに勝手に花畑に入って良いよとお許しも頂戴しました。
3.片栗の花を求めて 3月29日/4月2日
街では例年より早い桜の開花宣言があり、すでに満開の知らせも届いていましたが、それとともに、新型コロナ感染拡大防止のため、花見は自粛と呼びかけられていました。
3月29日、前夜からの雨のあがった朝、山ではそろそろ片栗が咲いているかしらと、街の桜には見向きもせず花畑へ出向きました。あちこちを探して回ると、まだ固い蕾が首を垂れているなんとも愛おしい姿に出会うことができました。鹿に食われないようにと、特別に周りに網を張ってもらっていて、ご主人もことのほか心を砕かれておられることを感じます。
そして、この前には見られなかった薄紫の菫(スミレ)の花が、そこかしこに咲き広がっていました。
木五倍子は、釣鐘型の花をいっそう膨らませ、小さくも何かを漲らせるようにすっかり満開の時を迎えていました。コロナの事で、心もとない不安を抱えているこの春にあっては、慎ましくも春の力を見せてくれるこんな木五倍子の姿にこそ、励まされる思いです。
そして山茱萸(サンシュユ)も連翹(レンギョウ)も、もう枝いっぱいの満開です。
木五倍子や山茱萸に次いで咲く土佐水木(トサミズキ)は、新芽の葉の中からぶら下がるように長い花序を伸ばして揺れています。この花も茶席に好まれる春の代表的な茶花です。
春を告ぐ鐘垂らすかに土佐みづき 久保田雪枝
温んできた小川の淵には、柔らかい葉を出したばかりの立金花(リュウキンカ)が群生しています。よく見れば、葉の下に小さな蕾もつけています。
そして、まだ裸木の雑木林を背に桃の花は満開、春の空に伸びあがった枝垂れ桜は八分咲きと、いよいよ山の花畑も春本番を迎えようとしていました。
4月2日、今度こそ片栗の花をみたいと、4日後の雨上がりの朝、再び山へ向かいました。この辺りだったかしら、あの蕾の片栗を探し歩くと、おお、みごとに咲いたその花に出会えました。
片栗の一つの花の花盛り 高野素十
花弁を強く反らし、すっくと立つ姿にも、春の力の宿っていることを感じます。鹿の食害からわずかに免れた片栗の、凛としたその美しさにすっかり魅了されてしまいました。
仕事に戻らねばならない時間も迫っていたので、今日は早々に帰ろうと小川の橋を渡っていると、4日前にはどこにもなかったつぶらな黄色い花が、川べりに広がっていました。あの立金花が、雨露をまといながら輝くように開花していたのです。
後で調べて分かったのですが、鮮黄色をみせているのは、花弁ではなく萼片(がくへん)だとのこと。その色の強さにも心を奪われてしまいました。
4.4月4日「清明」の日に山に咲く花々
今年は4月4日が二十四節気の「清明(せいめい)」に当たっていました。春分後15日目、天地に明るい空気が満ちる時期とされます。
晴天に恵まれたこの日の山の花畑は、すでに満開を迎えている桜、桃、ボケなどの華やかな花の周りですべての木々が芽吹き、透きとおった緑の光をまとっていました。
そして、山野の春の草木は、新たに花々をつけていました。
行く雲の光かがよふ花辛夷 野口香葉
空に向かって開く辛夷(コブシ)、春の光を存分に受けて輝きます。桜と並んで農事の目安となる指標植物とされ、古くから辛夷が種まきの時期を知らせると言われています。山の端に桜とは違うきっぱりとした白の花をつける辛夷が、山麓の村々には春の印であったのでしょう。
その横には庭木として賞玩される、薄紫色の優雅な幣辛夷(シデコブシ)も咲きそろっていました。
虫狩(ムシカリ)は、紫陽花(アジサイ)に似た装飾花を伴って咲きます。茶花としては花だけでなく実や紅葉も用いられますが、まだ葉も広がらない咲き初めたばかりの姿は、なんとも愛らしいものです。
利休梅(リキュウバイ)も蕾を膨らませ、開花し始めていました。これは、梅の字はつきますが、梅の種類ではなく梅の花に似た五弁の丸い花びらを持つことからの名前です。
この花には、少し苦い思い出があります。大学生の頃、桑原専慶流のお家元主催の流展に、まさに言葉どおりの末席を汚すという形で初出展させていただいた時、私に与えられた花材が、この利休梅だったのです。私には初めて出会った花でした。
華展の作品の中では主張が少ないおとなしめの花で、枝が細く、しなやかなので、そこを生かしてふうわりとボリュームを持った形に活けようとしたのですが、剣山に思いどおりに定まらず悪戦苦闘。あげくは、恩師岩田慶寿先生に手直しをしていただいて、やっとのことで完成させたのでした。その印象ばかりが残って、添えの花材が何であったかを今はすっかり忘れてしまいました。
当時はわかっていませんでしたが、程よい花付きの利休梅を華展の花材として揃えるのは、その最適の花どきに切りとるからこそ叶うことで、とても貴重な花材だったのだと、今にして気づくのでした。
そして、華展の花材ではなく、茶席の花として一枝を選ぶとするならば、蕾がちの、ちょうどこのくらいの咲き加減が良いのではないでしょうか。
地に咲く花に目を向けましょう。萌え出たばかりの低い花茎に咲くその小さな花は、一輪草あるいは一花草(いちげそう)と呼ばれるものです。
茎上にひと花だけをつけることでその名があり、落葉樹のもと、木の間から差す光を受けて咲き出し、陰ってくると閉じるという性質をもちます。この輝くような白も花弁でなく萼片の色なのです。初夏にはすっかり姿を消してしまうこの時期だけの妖精のような、春を告げる花です。
木の影の漂つてゐる一輪草 小沢比呂子
これも茶花の根締などに使われるのかと、初めて知ったのが金瘡小草(キランソウ)です。岩間にへばりつくように根を張って、上下に大きさの違う濃い紫の唇形(しんけい)花をつけます。花は愛らしいのに、春の彼岸の頃に咲き、株が硬く地面を覆うので、またの名を地獄の釜の蓋(ジゴクノカマノフタ)とは、気の毒な命名です。
春の茶花の中でも大好きなもののひとつが、碇草(イカリソウ)です。名前のゆかりともなっている4つの爪のある不思議な花の形に初めて出会ったのは、大学の教職員茶道部のお稽古でのことでした。ご一緒している職員の大岸美香さんのお母様が、丹精された茶花をよくお届け下さるのですが、その中にこのお花があり、忘れられない憧れの茶花となっています。この日はまだ一輪だけの開花。これからが楽しみです。
このほかにも花の準備が整いだした草木が揃ってきました。まだ芽吹いたばかりの一人静(ヒトリシズカ)、緑の小さな花芽をつけ初めた大手毬(オオデマリ)、鮮やかな花色を少しのぞかせた石楠花(シャクナゲ)の蕾。
3月末から花畑に来るたび、鶯の鳴き声を耳にしたこともしばしばあったのですが、なかなか姿は見えずでした。
梅に鶯ならず、枝垂れ桜の枝にしばし立ち寄った姿をはじめて捉えることができました。よくとおる透明な鳴き声と比較すると地味な姿ですが、近くで見ると仕草の愛らしさもひとしお。春の喜びを感じさせてくれます。
鶯や花零しつつ近寄り来 稲畠廣太郎
5.山の花も百花繚乱 4月11日/4月25日
4月11日 すでに晩春の趣
ついに4月7日、新型コロナ感染症緊急事態宣言が東京都を始め、埼玉、千葉、神奈川、大阪、兵庫、福岡県に出されました。
京都も大阪、兵庫に隣接し、予断を許さない状況であることは確かです。外出の自粛が呼びかけられて緊迫が増しているなか、いささか後ろめたさも感じながらですが、高橋さんと私は、マスクをして車の窓を全開にして、人のいない花畑にやってきました。
道中の山々には、街の染井吉野(ソメイヨシノ)より遅れて咲く山桜が満開となり、なかには風向きで道にまで花吹雪を降らせてくれる桜もあります。
人の世の非常時とは関係なく、山中は春が深まり、畑でも先に紹介した花々が旺盛に満開を迎えようとしていました。
そして、いよいよ木々が新緑の葉を広げ、初夏の兆しが深まってきました。初夏に咲く草花たちも、蕾を持ち開花の準備を整えています。
華鬘草(ケマンソウ)は、又の名を鯛釣草とも言うのですが、この時点の姿では何のことやらと思えるでしょう。花が大きくなった頃を見ていただくと合点がいきますので、少しお待ちください。
華鬘草にも憧れて、何度も苗を買って庭に植えてみましたが、1年しか花がつかず、翌年には消えてしまうということの繰り返しでした。山野草を街の庭で育てるのは、本当に難しいものです。
4月25日 緊急事態宣言下 自然は歩みを止めない
4月16日、ついに全国への緊急事態宣言が出され、大学の入学式は延期、私が所属する通信教育部では新入学生に向けたガイダンス、そしてスクーリング授業もズームで実施することとなりました。ズームを使ったことがほとんどなかった私は、何もかも一から勉強を始めて、同僚や事務局の皆さんに助けられながら何とか新しいコロナの時代への対応に取り組みつつありました。
一方で新入生の方々の不安を思うと、本当に心が痛みました。通信教育部は、自宅での学習と大学での対面授業(スクーリング)で成り立っていますが、一人での学習は、普段でも行き詰るとしんどいことがあるものです。
これまでも異口同音に、スクーリングで出会う学友の大切さを語られる方々をたくさん見てきました。それが、先行きの見えないまま学友と知り合うこともできず、各地の図書館も閉まった状態の中で、どうやって学習を進めたら良いのか、きっと悩まれているだろうなと、もどかしい思いが募りました。
そんななかで、山の畑の自然を見せていただく幸せなひと時がとても申し訳ない気持ちさえしていました。
悶々としながら、新入生の方々に、絵葉書を送ることにしました。これまで個人的に手元に集めていた新旧の絵葉書ですが、そこに、「目を移せば自然は変わらず花を咲かせ、確かな時を進めている、それに励ましを得て頑張って欲しい」という旨のメッセージを書きました。
何の慰めにもならないかもしれないけれど、身の回りの自然が、この閉塞下の心をどれほど癒してくれるか、しみじみと感じていたからです。
そうした時期の4月25日、出かけた山の花畑は若葉に包まれ、初夏の気配がいっそう深まっていました。
甘野老(アマドコロ)は、この時期の茶花としてたいへん愛好されるもので、小さな緑白色の釣鐘型の花がぶら下がっているのが楽しい姿です。さすがに花フジさんの畑のものは、葉も斑入りで美しい姿です。もうほんの少しだけ花が膨らんだ頃が、茶席には似合うでしょうか。
他ではあまり見かけない姿をとる白花延齢草(シロバナエンレイソウ)。茎の先端に大きな三つの葉をつけ、その真ん中から一つの花をつけるという独特の形姿ですが、私が初めて見たのは、比良山中の暗い森の中でした。少し湿った木下闇(こしたやみ)の中に、浮き上がるように見える大きな葉と白い花が、怪しい風情さえ漂わせていました。
こちらの花畑のものは、一段と花が大きいので、北海道や東北に産する大花延齢草(オオバナノエンレイソウ)の一種でなないかと思います。何れにしても幻惑的な初夏の山野草です。
あの小さな蕾を連ねていた華鬘草が咲きそろってきました。写真をご覧いただくとお分かり頂けると思いますが、とても不思議な花型です。この形が、仏堂の内陣の梁などに荘厳のために掛けられる「華鬘」に似ているため、この名があります。
花が連なる花茎が、大きく撓んでいるので、これを釣り竿に赤い花を鯛に見立てて、又の名を鯛釣草とするのも愉快な命名です。
鯛釣草たのしき影を吊り下げて 山田みづえ
むらさきの色を惜まず花蘇枋 飯島正人
独特の花のつき方をするのが、花蘇芳(ハナズオウ)です。染料とされる蘇芳(別種の植物)の染め色に花の色が似ているのでこの名があるのですが、葉の出る前に枝を取り巻くように直接密生して蕾をつけるので、満開になると枝自体を濃い赤紫の花で覆い尽くされるようになります。
花色の鮮やかさで目を引くのですが、満開になると少し過剰な華やかさになるので、茶花に用いる場合は、2枚目の写真のような枝が相応しいように思います。
桜の季節が終わると、次に多くの人を惹きつけるのが藤の花でしょう。紫の長い花房が藤棚いっぱいに連なる美しさは、本当にうっとりするような光景です。
しかし、ひと枝を茶室に活けるとすると、写真のような房の短いタマフジ系の品種が重宝されます。竹花入などにも収まりやすく、中でも白藤は茶室に映えてその清浄さが際立ちます。
木陰に小さな花穂を出しているのは、類葉升麻(ルイヨウショウマ)です。
この時期は、なになに升麻と呼ばれる小さい花を穂状につける茶花がたくさん出ますが、その代表的なものが晒菜升麻(サラシナショウマ)です。それと葉の形状が似ているので「類葉升麻」と名付けられているのですが、花は晒菜升麻よりさらに小ぶりです。
これに限らず升麻のような山中の木陰でひっそりと咲いている花が茶花として好まれますが、こういう花を普段の街の暮らしの中で手に入れるのは難しいものです。
4月の初めには小さな花芽だった大手毬も、紫陽花に似た装飾花を毬状に広げてきました。手毬のように丸くなるのも、もう直ぐのことでしょう。一方で4月の初めに咲きはじめた虫狩は、落花の時期を迎えています。
新緑の時期を迎え、板屋楓をはじめ木々の葉は、まだ透けるような若々しさで、その木漏れ日は柔らかい光を作ります。緊急事態宣言のただ中、心に沁みる時間をいただきました。
6. 寺町の奥まった所 鎌餅の大黒屋さん
さて、春の花を追って参りましたが、花にご興味の薄い方もいらしたかもしれません。お待たせいたしました。「花より団子」という言葉は、私にとっても頷ける所があります。
今回のお菓子は「鎌餅」をご紹介いたします。
私の教職員茶道部でご指導いただいている北見宗樹先生も、素朴な餅菓子のなかでお薦めになるもののひとつが、この「鎌餅」です。
じつは、「花フジ」さんのお近くにあることもあり、「花フジ」さんもよくお使いになるお菓子と伺いました。
花フジさんのある寺町今出川を寺町通りに沿ってしばらく北上しますと、その東側には、寺院が軒を並べて続く、かつての寺町の姿をそのまま残した地域となります。今年の春、寺町三条にある矢田寺を取り上げました時に、繁華街の中に残る寺院をいくつかご紹介しましたが、その同じ寺町通りでも、市街化したところとは全く違う風情を残した静かな通りです。
その中にある阿弥陀寺は、今まさに「麒麟がくる」で注目されている本能寺の変とゆかりのあるお寺です。ここには、本能寺の変の後、信長の遺骸を密かに移して埋葬したと伝える、墓所があるのです。
その話の詳細はさておき、この寺院の向かい側に西に続く小さな道があります。そこを少し入ったところ、誠に知る人ぞ知るといった奥まったところにあるのが、「鎌餅」の大黒屋さんです。
優しい面ざしのご主人 山田充哉様にお伺いすると、かつて京の七口のひとつであった鞍馬口の茶店が作っていた人気の餅菓子を、明治30年(1897)に初代の方が復活させたもので、当代のご主人様で3代目になられるといいます。
寺町をこの辺りからさらに北上したつきあたりの東西の通りが鞍馬口通りで、そこを東に進みますと、鴨川にぶつかります。つまり、その鞍馬口通りの東端にあったのが洛中から洛外への出入り口であり、洛北鞍馬へと続く鞍馬口というわけです。
出雲路橋という橋がその東へすぐのところにかかっていますが、そこを渡ると、下鴨神社もある下鴨地域に出ます。
今は高級住宅街となっていますが、かつてあった下鴨村は農村地帯で、江戸時代の地図を見ると田畑が描かれています。さらに高野川を越えた東側一帯、それこそ鞍馬への道々は、農村地帯が広がっていたのです。
こうした洛中に隣接していた農村地域の文化を、色濃く残しているのが、鎌の形をかたどった「鎌餅」です。
ひとつずつ薄い経木に巻かれている風情も格別なのですが、これはもしかしたら、腰掛け茶店で、気軽に食べられるように工夫されたラッピングだったのではないかと気付きました。
それで、屋外での撮影でもあるので、楊枝を使わず経木の包みをそのまま手に持っていただくことにいたしました。
確かに手になじむ大きさ、そして、なんとも柔らかいお餅に、きめ細かい餡がたっぷりと包まれていますが、餡がこぼれ出すことはありません。その甘みはあっさりとして、餅菓子でありながらにまことに上品に仕上げられています。
ひとつひとつ手作りされた餅は、鎌の形をかたどったと言っても、リアルなものではもちろんありません。しかし、微妙に両端の太さを変えることで鎌の刃の姿をえがく、ここには見立ての文化、見立ての目が働いています。
もとは農事の合間、あるいは旅の途上で疲れを癒すために、一服する時のお菓子であったのかもしれませんが、素朴でありながらも、その端正さと上品なお味に、えも言われぬ都ぶりをひしと感じる餅菓子なのです。
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