賀茂御祖(かもみおや)神社 流鏑馬(やぶさめ)と神事を支える人々 —さるや 申餅(さるもち)[京の暮らしと和菓子 #24]

『瓜生通信』2019年5月31日公開

賀茂御祖(かもみおや)神社 流鏑馬(やぶさめ)と神事を支える人々 —さるや 申餅(さるもち)[京の暮らしと和菓子 #24]

edited by  栗本 徳子    高橋 保世
 桜の時期は、花の開花、盛りを追って、そわそわと浮きたつ気分になりますが、5月の京都は、若葉に彩られた山々、新緑の淡い光を透かす街路樹にしみじみと癒される、そんな気分が広がる季節です。過ごし易いこの季節が、京都の四季の中でも一番好きという声は、私の周りにも多いように思います。
それこそ京都には、とくに楓の新緑の名所は数多あります。そうした名園とは別に、私は、この時期の賀茂御祖神社(下鴨神社)糺(ただす)ノ森に、少し思い入れがあります。
糺ノ森は、平安京ができる前からの京都盆地の植生を伝える森としても知られています。つまり広葉樹を主とした木々によって構成された雑木の森なのですが、賀茂川などの氾濫で幾度もさらわれた結果、それが若い植生を保たせることになった森でもあります。広葉樹は大きく枝を張り、冬は葉を落として森の中が明るく、初夏には清々しい新緑におおわれます。
息子が小学生から中学生の頃、下鴨神社のボーイスカウトに所属させていただいていた関係で、保護者として、また少しだけ勤めた副長として、日曜日の朝には、毎週、糺ノ森に出かけていました。恵まれたことに下鴨神社のボーイスカウト、ガールスカウトは、この境内の糺ノ森でのびのびと日々の集会や訓練をさせて頂けるのです。
そして、森に若葉の光が満ち、爽やかな風が通り抜ける5月は、下鴨神社にとって最も重要な祭、葵祭(賀茂祭/かものまつり)が執り行われる月であり、ボーイスカウト、ガールスカウト関係の子供たちや保護者にとっても、特別な月となるのです。
5月15日、腰輿(およよ)に乗られる斎王代(さいおうだい)をはじめ、王朝風の装束を身につけた人々による行列が、御所から下鴨神社、上賀茂神社に向かう「路頭の儀」は、まさによく知られた葵祭の花とも言えましょう。この日の行列は本来、「勅使奉幣の儀」のための祭列であり、葵祭はさらに多くの祭儀を合わせて、一連の祭としています。
5月3日、糺ノ森で行われる流鏑馬は、現在、葵祭の前儀として最初に行われる神事であり、また5月12日に行われる御蔭(みかげ)祭は葵祭の三日前に、下鴨神社から御蔭神社に御阿礼(みあれ)(新たな神霊)を迎えにいく祭であることも、一般にはあまり知られていないかもしれません。そして、この流鏑馬や御蔭祭には、地元ボーイスカウト、ガールスカウト関係者が、さまざまな形で奉仕する機会になっているのです。特にスカウトの子供たちが活躍するのが、今回取り上げる流鏑馬神事です。

 現在の流鏑馬神事は、比較的新しく再興されたものですが、馬に乗りながら矢を射ることは、いにしえの賀茂祭の歴史とも深い関わりがあります。『続日本紀』文武天皇2年(698)、まだ都は藤原京にある時代、「山背国(やましろのくに)賀茂の祭の日、衆を会(あつ)め騎射するを禁ず」と記されています。騎射の神事に、多くの人が集まって、恐らくひと騒ぎまで起こるような賑わいだったのでしょう。この時代にすでに賀茂祭に騎射が行われていたことがわかります。
そして平安遷都ののち、賀茂社は、国家鎮護、平安宮都の守護神となり、朝廷と深く結びつくこととなり、内親王が斎王として賀茂祭に奉仕することが、嵯峨天皇の時代に始まったとされます。祭に列する人々が皆、葵、桂の挿頭(かざし)をつけることから、葵祭と称されるようになったのでした。
応仁、文明の乱による戦乱の影響もあり、文亀2年(1502)から「路頭の儀」は中絶してしまいますが、江戸時代、元禄7年(1810)の賀茂祭から旧に復しました。明治以降も様々な変遷をたどりましたが、戦時中ついに中絶し、昭和28年(1953)に「路頭の儀」が再興され、昭和31年(1956)から斎王代を立てて、今日の祭の形となりました。
流鏑馬については、元亀2年に廃絶していたものが、昭和48年(1973)に再興されたのでした。
下鴨神社の流鏑馬の特徴は、公家風の装束を身につけて、王朝風の所作で行われることです。小笠原流同門会が射手を務められ、糺ノ森に設けられた馬場を騎乗で疾走し、的を射ます。日頃から厳しい訓練を積まれた小笠原同門会の方々の勇壮で華麗な流鏑馬は、まさに目を奪われる妙技です。的を射抜いた瞬間、観衆のどよめきが糺ノ森に響きわたります。
そして、ボーイスカウトたちは、この的を差し替える「的持ち」の役などを担うことになっています。主役を支えるこうした所役の働きがあることを、私自身、保護者として息子に付き添うまで、全く知ることもありませんでした。
小学校高学年が務めることもある「的持ち」もまた、慣れない装束を着つつ、緊張のなか、丸一日にわたる神事に奉仕しています。

5月2日 小笠原同門会の射手の方々の前日リハーサル

今回、そうした所役にも目を向けて紹介したいと、古いご縁を頼りに、日本ボーイスカウト京都連盟理事で、かつて京都ボーイスカウト68団(下鴨神社)の団委員長をされていた高林伸樹様にお願いし、下鴨神社、ボーイスカウト関係者のご協力を得て、令和最初の流鏑馬を取材させていただくことができました。
加えて、この取材のご縁で、今回特別に京都造形芸術大学の学生にも、「的持ち」のお役をいただけることになりました。大学の京都.comというサークルに所属する歴史遺産学科の女子学生3名が、手を挙げてくれました。京都.comは、京都の様々な催事、祭にボランティアで参加して、その活動を助けることを旨としているサークルです。彼女らの頑張りも合わせてご報告したいと思います。
5月3日、流鏑馬当日の朝は、晴れやかに明けました。9時30分にボーイスカウト、ガールスカウト関係者、そして京都造形芸術大学の学生たちも加わって公文所前に集合、ここで祭儀のための修礼(しゅらい)が行なわれました。修礼とは、儀式のための下稽古です。

京都ボーイスカウト68団 高林伸樹様 ボーイスカウト・ガールスカウトに朝の挨拶と激励の言葉

修礼 役割ごとに持ち物を持って、行列の練習

修礼 小笠原同門会の方から、矢の持ち方、渡し方の所作を習う

修礼が終わると、早い昼食をとって、いよいよ装束を身につけます。「的持ち」は、無文の黄色い布衣(ほい)に、括袴(くくりばかま)を着用します。男子のスカウトらは、副長や保護者などが着せ付けます。私も、昔を思い出しながらのお手伝いをいたしました。まだ体の小さい少年たちは、布衣や括袴の丈の調節がなかなか難しく、神職様のアドバイスをいただきながらの着付けです。
風折烏帽子(かざおりえぼし)に葵と桂の挿頭(かざし)を付け、これを被れば「的持ち」の装束が完成します。
京都造形芸術大学の学生3名は、女子なので、奥の部屋で着付けてもらって、こちらも出来上がりました。

「的持ち」の着付
「的持ち」の着付
挿頭(かざし)。葵の茎と桂の枝を束ねたもの。手前の青い葉が葵の葉で、手元のすぐ上に見える丸いものが葵の花
風折烏帽子に挿頭をつける

「的持ち」を担当するボーイスカウトの少年たち

「的持ち」役の京都造形芸術大学の学生たち

長官代はじめ、射手など、束帯(そくたい)や武官の袍(ほう)など、本格的な公家装束を着る方々は、専門の着付けの方によって装束を整えられます。
全員が装束をつけ終わると、それぞれの持ち物を持って再び公文所前に整列し、いよいよ神前での「社頭の儀」へと向かいます。
楼門内へ進んで手水を使い、舞殿の南庭に向かいます。公家装束をつけた長官代、射手などは、舞殿に上がり、それ以外の諸役は、南庭に列します。

全員整列して、いよいよ神前へ向かいます

手水舎(ちょうずや)で身を清める
舞殿の前、楼門内に整列
長官代などが舞殿へ上られる
射手の方々が舞殿へ上られる
舞殿の階(きざはし)脇には随身(ずいじん)が控えます
諸役は、南庭に控えます

流鏑馬神事斎行の奉告をする「社頭の儀」が行われます。舞殿の公家装束の一行は、それぞれ神前に榊を奉じ、拍手(かしわで)を打ち拝礼します。そのあと、勧盃の儀が行われ、さらに射手に弓と箙(えびら)に入った矢が授けられます。
こうした「社頭の儀」は、一般の方には、ほとんど知られていないかもしれませんが、この厳粛な神前の儀式によって流鏑馬が神事であることを改めて知ることができます。
ただ、この間、かなり日差しの強い舞殿の南庭で、所役の者は整列して立っているのですが、小学生のスカウトなどにとっては、なかなか体力的に厳しいのも事実です。付き添っている副長などが扇であおいであげたり、水分補給したりすることで、しのぐ場合もあります。

賀茂伝奏代が榊を奉ず

射手の方々
長官代が拍手(かしわで)を打ち拝礼
一の射手が榊を奉ず
射手が拍手を打つ

一の射手の勧盃の儀

一の射手が弓を受ける

射手が矢を入れた箙(えびら)を受ける

二の射手が矢を入れた箙を受ける

社頭の儀が終わりますと、一行は楼門から外に出て、いよいよ糺ノ森の馬場を目指します。
賀茂伝奏代、長官代は、文官の束帯(そくたい)姿で、黒い縫腋の袍(ほうえきのほう)(腋を縫ってある袍)を着て、後ろに長い裾(きょ)を引いて歩かれます。一方、射手は、武官の闕腋の袍(けってきのほう)(腋を縫わない袍)を着しますが、馬に乗るため、裾と下襲(したがさね)の裾(きょ)を引かず、腰のところでまとめています。この下襲の浅葱(あさぎ)色(水色)が、袍の腋から見えるのもなかなかに美しい風情があります。
こうした公家装束を身につけた一行が、行列を組んで歩くだけで、王朝の絵巻を彷彿とします。まさに下鴨神社ならではの、じつに典雅な光景です。
「的持ち」たちも、1尺8寸の杉板の的を捧げ持ち、神妙な面持ちで馬場へと歩んでいきます。スカウトの子供たちにも、自然にきりりとした真剣なまなざしが宿っていくのでした。

「社頭の儀」が終わり、一の射手が楼門を出る

二の射手が楼門を出る
新木直人宮司 裏千家千玄室大宗匠(流鏑馬神事等保存会会長)ほか役員の方々も、馬場に向かう
賀茂伝奏代、長官代などは文官の束帯姿で、縫腋の袍(ほうえきのほう)から長く裾(きょ)を引いて歩く
楽を先頭に、馬場の方へ向かう行列
馬場へ向かう一行
射手の後ろには、「的持ち」も

ボーイスカウトの「的持ち」

京都造形芸術大学の学生による「的持ち」

馬場に入る手前の鳥居の辺りで、新木直人宮司をはじめ、流鏑馬神事等保存会の会長を務めておられる裏千家千玄室大宗匠ら、来賓の方々は、馬車に乗られます。そしてここで射手は騎乗して、馬場を南に進みます。
糺ノ森に設けられた馬場は、350メートル。南端を馬場元とし、そこから60メートルで一の的、次いで100メートルで二の的、また100メートルで三の的が設けられ、馬場の北の端を馬場末とします。
一同の列は一旦馬場末から馬場元までを行進し、折り返して戻ってきます。馬車は、馬場の東側中央に設けられた馬場殿(来賓席)につけられて来賓の方々が降り立ちますが、射手、諸役は馬場末まで戻り、再び射手は、馬の走る埒内を馬場元まで乗り入れ、諸役は、埒の西側を進んで所定の持ち場につきます。
「的持ち」のスカウトの少年たちは二の的、本学学生らは三の的の担当ということで、それぞれ的の近くに設けられた透明の防御板の後ろに座ります。
馬場殿前で、賀茂伝奏代は伝奏文を奏され、長官代は流鏑馬神事奉仕を宣言されて、いよいよ流鏑馬の開幕です。
そして、「的持ち」らによって、1尺8寸の杉板の的が各支柱に据え付けられますと、準備が整います。
今回、誠にありがたいことに、写真の高橋さんが三の的近くの席、私が二の的近くの前席を頂戴することができ、それぞれその席から好条件で写真撮影をすることができました。ただし、馬場は長く、またたいへん多くの拝観者が馬場の東側、拝観席周囲までぎっしり埋め尽くす賑わいであったため、各所を移動して撮影することは叶いませんでした。三の的と二の的付近で可能な範囲での撮影となり、また私の拙い写真も加えてのレポートとなりますが、以下、流鏑馬の様子をお伝えいたします。

新木宮司様、千玄室大宗匠ほか役員は、馬車に乗られて馬場へ向かいます

馬場の手前、鳥居の辺りで騎乗する射手

颯爽と馬場を行くスカウトの「的持ち」

射手は、馬場の南端にある馬場元へ

射手は、馬場の南端にある馬場元へ 諸役は、各々の持ち場、一の的、二の的、三の的へ

二の的の防御板の向こうに座る「的持ち」のスカウトたち

京都造形芸術大学の学生は、三の的を担当

三の的で、的をつける

さて、いよいよ公家装束の一の射手が、馬場元から走り出しました。射手は矢を射る直前、「インヨー(陰陽)」と大きい掛け声を発し、矢を放ちます。杉板の的はボンと鈍い音を響かせ、みごとに飛び散り、バラバラと落ちます。途端に観衆から「オー」という感嘆の声が上がります。瞬く間に三つの的すべてを的中させ、射手は馬場を駆け抜けました。
「的持ち」は、的中し割れた的を集め、回収するとともに、新しい的を懸けます。もし的中しなかった場合も、新たな的に懸け替えることになりますので、一騎の流鏑馬が終わるたびに、的を取り替える役を担います。

さて、勇壮華麗な公家装束の射手は三の射手まで続きます。その後この3人は、馬場殿前で神禄を賜ります。その時の独特の所作がたいへん優雅なのですが、射手は、神禄の長い帛(はく)を手で受け取るのではなく、騎乗のまま、鞭を差し出して受け取り、鞭を扱ってその帛を肩にかけますと、片袖を広げるような所作で左、右、左と拝舞を行うのです。今日、下鴨神社でしか見ることのできない流鏑馬の作法と言われます。

矢を番え、疾駆する射手

インヨーの掛け声とともに三の的へ

みごと命中して、三の的が割れ飛ぶ

「的持ち」は、命中して割れた的をまとめ、新しい的を準備

スカウトの男子は、二の的の担当 的中した的を片付け、新しい的を懸ける

長官代から神禄の帛を賜う 鞭で受け取る
神禄の帛を左肩に鞭で懸ける
馬上で行う拝舞 左方を向き、左袖を広げる
馬上で行う拝舞 右方を向き、右袖を広げる

馬上で行う拝舞 再び左方へ

三の的付近、馬場末では、馬場奉行が、馬場の準備ができたことを扇を掲げて合図する

こうして、公家装束の射手の後は、武家風の衣装をつけ、陣がさをかぶった射手の流鏑馬が続きます。各的で放たれた矢が増えてきますと、これを、三の的から、二の的、そして一の的へと矢をまとめつつ返すことが、「的持ち」の役割の一つとなっています。朝、修礼の時に習った所作で、矢を運び、各的で、「的持ち」同士が蹲踞して、矢を受け渡しします。二の的では、三の的の矢を受け取ると、これに二の的の矢を加えて、一の的へと届けるのです。「的持ち」にとって、少し晴れがましい場面でもあります。
さて、流鏑馬では的に的中すると、五穀が稔り、所願が成就するといわれますが、今年は多くの的が的中いたしました。令和元年の幕開けにふさわしいめでたい神事となりました。

3人の公家装束の射手の後は武家装束の流鏑馬 二の的にみごと的中

三の的、的中

二の的にも、的中
三の的の的持ちが、二の的まで溜まった矢を届けに来る
蹲踞して二の的の的持ちに矢を渡す
矢を渡し終えたのち、互いに礼をして、三の的の的持ちは戻る 二の的の的持ちは一の的に矢を届ける

流鏑馬が終わり、楽を先頭に馬場元から馬場末に行列して戻る一行

「的持ち」も馬場を戻り、楼門へ

楼門前で、諸役神前に一礼して終了 公家装束の射手は賜った神禄の帛を左肩から斜めに懸けている

こうして全ての騎射が終わりますと、馬場元から全ての射手と諸役が馬場末へと行列して戻り、楼門前で神前に一拝して、流鏑馬神事は終わります。
ボーイスカウト・ガールスカウトの子供たちも、最後まで立派に役目を勤め上げ、晴れ晴れとした笑顔を見せていました。本学の学生たちも、とても素晴らしい経験だったと、目を輝かせて1日を振り返っているようでした。

小笠原31世宗家小笠原清忠氏は、今年の下鴨神社発行の『葵祭』パンフレットに「葵祭の古儀、騎射の伝統を伝える「流鏑馬神事」」という一文を寄せておられます。その中で、「本神事は流鏑馬神事等保存会(裏千家前家元千玄室会長)が中心となって伝送代以下総勢百余名が装束をつけ奉仕する。奉仕者は小笠原同門会、下鴨神社青年会、下鴨・葵東西・高野地区の総代やボーイスカウト・ガールスカウトの皆さん。参加する子供たちも大事なメンバーである」と記されています。普段は、人の目にはつきにくい、こうした多くの地元の人々の奉仕に、神事としての流鏑馬の大切な一面として言及されていることに、改めて感服する思いで拝読しました。

さて今回は、まさにこの地元の思いからできたとも言える下鴨神社の境内にある茶店「さるや」の「申餅」を、ぜひご紹介したいと思います。
「さるや」は、下鴨に本店がある宝泉堂さんが営まれるお店なのですが、なんと2010年5月、140年ぶりに復元された「申餅」を供することで知られています。

下鴨神社境内の「さるや」

今回、高林様のご紹介で、宝泉堂社長の古田泰久様に直接、お話をお伺いすることができました。お目にかかって、すぐにお見せいただいたのが、『ゑ入(えいり)京土産』でした。これは、浅井了意による延宝五年(1677)の『出来斎京土産』にあたります。この巻之五に江戸時代前期の下鴨神社の様子を伝える貴重な記録が残されています。そこには、下鴨神社の境内にある様々な店が描かれており、「みたらしだんご」を売る店、御神酒所のほかに、「さるや」という暖簾をかけた幄屋(あくのや)が描かれています。

『ゑ入 京土産』

『ゑ入 京土産』巻之五 下かも

境内の茶店「さるや」

社長の古田様は、「私は父の跡を継いで菓子作りを営んでいますが、店をちょうど下鴨膳部(かしわべ)町に構えています。膳部町とは、もともと下鴨神社への膳の調製を司る方々がいらしたところです。下鴨神社の氏子として、さらにはこの膳部町に住まいすることにご縁を深く感じて、神社に何か貢献できることをと考えてきました」と、そして、「新木宮司様から、神職様の間に口伝だけで伝わってきた申餅の製法をお教えいただき、試行錯誤の中で、その再現を試みたのが、この申餅です」とおっしゃいます。
明治時代の初期、近代国家神道が成立する中でこれまでの神社の歴史が大きく変貌したのですが、とくに庶民の間に伝わってきた習慣が廃止され、その中で申餅も販売されなくなったと言います。
小豆の茹で汁で搗いた「はねず色」のお餅が、葵祭の申の日に神前に供されたことから、これを葵祭の「申餅」と称し、庶民にも親しまれていたもののようです。申餅の由緒書きによると、「はねず色」は明け方の一瞬、空が薄あかね色に染まる様子を指し、命の生まれる瞬間を表すとの謂れがあるそうです。
かつて葵祭は4月酉の日に行われてきました。申の日は、まさにその前日にあたります。神前に供えられた申餅は、翌日葵祭の日に、勅使を始め祭の関係者にお下がりとして供されたとの由緒もお聞きました。まさに葵祭に最もふさわしいお菓子と言えましょう。

上品なひとくちでいただける大きさも、殿上人が口にしやすいサイズなのだと言います。じつはこのお餅、中がいわゆる餡ではないのです。こっくりと煮崩れせずに炊かれた小豆の甘煮なのです。口に入れますと、餅米の旨味をしっかりと感じることができる餅に、美味しさを閉じ込めた粒のままの小豆が、しっとりとしかも絶妙の柔らかさで口の中で潰れ、その旨味が相まって広がります。
どこまでも上品で、しかも自然の恵みをそのまま生かしたお味に、神前に供えられる餅の意味を改めて感ずることができました。
古田様はさらに「餅米、小豆、そして一緒にお出ししている『まめ豆茶』の黒豆も、かつて下鴨神社の社領のあった兵庫県丹波地方のものに限って使わせていただいています。安全で、身体に良い原料を厳選して使うことに心を致しています」ともおっしゃいます。

申餅に添えられる「まめ豆茶」は、これも明治初めの祭儀改正以前、潔斎期間中の神社の神官の飲み物としてあった黒豆を炒って作られたお茶に倣ったものだそうです。お茶を出した後の黒豆も少し塩を振ってそのままいただくと、さすがに丹波の黒豆、大きく立派な香ばしい黒豆にも、清らかな自然の恵みが感じられます。
神詣でのあとの茶店での一服、これが江戸時代にも庶民が愛した参詣の福徳であったろうと、身も心も洗われるような糺ノ森の緑の光を浴びながら、いにしえの庶民の姿が、我が身に近しくなるような思いもいただきました。

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*本稿は、『瓜生通信』2019年5月31日公開の【賀茂御祖(かもみおや)神社 流鏑馬(やぶさめ)と神事を支える人々 —さるや 申餅(さるもち)[京の暮らしと和菓子 #24]】の一部を編集し転載しています。

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