[京の暮らしと和菓子 #30]

矢田寺の終い地蔵 南瓜炊(かぼちゃだき)と寺町・新京極通り-長久堂 こなし製 鹿ケ谷南瓜-[京の暮らしと和菓子 #30]

edited by ・栗本 徳子 ・高橋 保世
 新型コロナ感染拡大の緊急事態宣言のもと、京都は令和2年4月16日、特定警戒都道府県と指定され、今も解除に至っていません。家にいること「ステイホーム」が、自らの、また他の人の命を守ることと、外出の自粛が訴えられて、街も観光地も静まり返っています。

これまで当たり前のように、京都の様々な年中行事に出掛けていた者にとって、考えられないことが続いています。京都の社寺での行事が次々に中止となっています。一昨年4月に取り上げた松尾祭も神輿渡御が中止となり、去年5月に取材させていただいた下鴨神社の流鏑馬も、また同じく7月の祇園祭の山鉾巡行も、中止と決定されました。

さて、大学の業務の傍らに筆をとる私のコラムが、毎月の流れに合わせて執筆、取材をこなせていないことから、すっかり催事の時期とずれが生じてしまっていることを、まずお詫びしなければなりません。その結果、12月暮れの行事を、ようやく追加取材を終えて、今ごろ書いているという始末なのです。何を季節外れの行事を、またこの緊迫した時期にとお叱りを受けるかもしれません。

元どおりの暮らしをいつ取り戻せるのか未だ先の見えない不安のただ中にあって、コロナ後の世界に何が起きようとしているのかも、今はわかりません。

ただ、多くの疫病、大火、戦さを経てきた京都の人々が、苦難の中から何度も立ち直ってきた、その暮らしの中にあった祈りの姿が、今日の年中行事につながったのではないかと思っています。無力ながらも、京都で時代の変化を受け入れつつ、時代を越えてきたものの力を、幾ばくかでもお伝えすることできればと願うばかりです。

 

1.令和元年12月23日 矢田寺 南瓜(かぼちゃ)炊き

12月、師走というのは、中でもさまざまな行事が京都の寺社で行われる月でもあります。押し詰まった多忙な時期だというのに何をわざわざ寺社参詣とはと、もしかしたら、それ自体が、現代には悠長なことのように思われるかもしれません。以前にもご紹介した大根炊き(だいこだき)や空也踊躍(ゆやく)念仏、それ以外にも終い弘法、終い天神などとひと月を通してじつに方々で行われています。

また、今では祇園や、老舗の関係者の間にしか残っていないようですが、正月の準備を始める日として、関係先への挨拶を欠かさない12月13日の「事始め」なども含め、一年を終えることのけじめ、そして準備怠りなく、あくる新年を迎えることへの、心の節目を大切にした暮らしの形を、色濃く残しているのが、12月の行事なのだと思います。

今回取り上げるのは、年末も押し詰まった12月23日に行われる矢田寺の南瓜炊き(かぼちゃだき)です。矢田寺のこの行事自体は、それほど古くからの歴史を持つものではないのですが、冬至の時期に南瓜を食べるという風習と重なります。

俗に冬至の日には「ん」がふたつつく物を食べると、「運盛り(うんもり)」といい、無病息災に過ごすことができ、また幸運を呼ぶとされます。南瓜は「なんきん」ですし、そのほか「にんじん」、「ぎんなん」、「れんこん」、「きんかん」などが、これに当たります。

冬至は、ご存知のように、最も日中の時間が短い日です。陰の極みの日と考えられ、翌日から陽に転じることから「一陽来復(いちようらいふく)」とも称されます。陽の兆しに運気を上げる食べ物をということで、「運(ん)」がたくさんつくものを摂るというわけです。

南瓜、京人参、銀杏

 

語呂合わせの「ん」だけでなく、実際、かぼちゃは、その栄養価の高さから、風邪のはやるこの時期に適った食べ物とされます。そのためか、なかでも南瓜を冬至に食べるという風習は一般に最も定着しているように思います。

ただし、冬至はだいたい21日か22日頃となることが多く、令和元年の冬至は22日でした。矢田寺南瓜炊きの23日はじつは冬至の南瓜とはまた少し違った意味があるのです。

矢田寺は、あとで詳述しますように、地蔵信仰で知られた寺院であり、23日とは地蔵詣の日に当たるのです。地蔵の本来の縁日は毎月の24日なのですが、仏教では、お逮夜の考え方で古くから前日を大切にする風習があります。

例えば、観音の縁日は18日なのですが、私の実家では、毎月17日に、仏間に置いてある三十三観音を納めた観音厨子を開扉して、欠かさず供物をあげてお祀りしていたものでした。むかし祖母に、「なんで17日にお参りするの?観音様はほんまは18日のはずやないの?」と素朴に質問したこともありましたが、きょとんとした様子。17日にお参りするのが当たり前、むしろ観音の縁日は17日と心得ている風でした。

こうした風習は、もちろん我が家に限ったことではありません。

地蔵についても、各地の寺院で、23日を縁日として行事を設けているところも多く見られます。矢田寺も、12月23日が今年最後の地蔵の縁日ということで、この日が「終い地蔵」となるのです。

三条寺町から北3軒目にある矢田寺

 

さて、三条寺町上ルにある矢田寺は、寺町商店街の只中に位置します。寺町の四条通りから三条通りまで、そして三条通りの北から御池通りまでと二つのアーケード街が設けられています。この寺町と並行して河原町通りとの間に四条から三条までもう一つのアーケードが通りますが、これが新京極通りです。これらの商店街には、飲食店、映画館、衣料品店やお土産物屋さんなどが軒を連ね、若者や観光客など様々な人で賑わう繁華街となっていますが、その名のとおり、かつては寺院が建ち並んでいた通りでした。

三条寺町のアーケード入口と近くに位置する矢田寺

 

このアーケード街を行き来するほとんどの人は、賑やかな商店に目が行き、その並びに、今もお寺が点在しているということをほとんど意識しないで、買い物や食事を楽しんでいるのではないでしょうか。

しかし、この日ばかりは商店街の一角、矢田寺前に長蛇の列ができます。それは、南瓜供養の法要のあとのお接待を楽しみにしている参詣者の列です。多くの寺院では、一椀幾らと志納金が定められることが多いのですが、矢田寺の南瓜炊きは、無料接待なのです。正確に申し上げれば、参詣者が自由に志を納めることのできるお接待です。年の瀬押し詰まったお地蔵さまの最後の縁日、その功徳をお分けいただく南瓜炊きは、なんと1000人分が用意されるのです。

さて、この行事の詳細をご紹介する前に、ぜひ知っていただきたいのが、矢田寺の信仰と歴史、そして寺町通り、新京極通りのことです。

寺町三条から長蛇の列 矢田寺 南瓜供養 最後尾のプラカード

 

2.矢田地蔵尊の信仰

矢田寺門前の提灯 

矢田寺 駒札

 

じつは、矢田寺はたいへん歴史ある寺院です。

寺伝によると、京都の矢田寺は奈良の矢田山金剛山寺を起源とし、その別院として承和(じょうわ)12年(845)に平安京の一角に造られたものとされます。

奈良の金剛山寺は、聖武天皇の本願で智通僧正の開基と伝えられる寺院ですが、平安時代の満米上人の地蔵霊験譚によって地蔵信仰で知られる寺院となりました。14世紀に成立した矢田寺蔵の《矢田寺地蔵縁起絵巻》をもとに、その霊験譚をたどりましょう。

延暦15年(796)より大和国金剛山寺に住していた満米上人は、地蔵尊を深く信奉し多くの施主に菩薩悔過(けか)を行っていました。上人に帰依していた小野篁(おののたかむら)は、身は本朝にありながら閻魔庁にも仕えていて、悪増に苦しんでいる閻魔王宮に、上人を菩薩の戒師として招請することを進言したのです。それで冥官が遣わされて満米上人は閻魔王宮へ招かれ、閻魔王らに戒を授けたのでした。

喜んだ閻魔王から布施は何が良いかと聞かれた満米上人は、迷いの凡夫が六道を生死流転する苦しみを離れるためにも、地獄の世界を見たいと願い出て、閻魔王は上人を連れて阿鼻(あび)地獄に出向きます。

絵馬に仕立てられた《矢田寺縁起絵巻》の阿鼻地獄の業火に苦しむ人々を救う地蔵菩薩

 

その猛火の苦しみを受ける衆生の凄惨な地獄での様子を見るのですが、その中に一人の僧を見出し、誰なのかと閻魔王に尋ねると、地蔵菩薩だと言われます。

上人に近づいてきた地蔵菩薩は、王宮での菩薩戒の授戒のおかげで衆生の多くが苦しみから救われ随喜していると述べ、我は、釈尊の言いつけで悪業の衆生を救うため、炎の中で大悲代苦を務めるも、自分との縁のない衆生は救えない、人間界に帰ったら我に結願するよう人々に告げよと話したのです。

閻魔王は上人を冥官に人間界まで送らせ、そのとき塗りの小箱を上人に授けたのですが、それは取れどもまた白米の満つる箱だったので、この箱にちなんで上人は満米と呼ばれるようになったと言われます。

上人は仏師を招き、地獄で会った地蔵の姿とそっくりの地蔵像を造らせ寺に安置したのですが、それが本尊の地蔵菩薩像であるというのです。

絵馬に仕立てられた《矢田寺縁起絵巻》の武者所康成に手を差し伸べて救う地蔵菩薩

 

《矢田寺縁起絵巻》に収められている第二話には、大和国の武者所康成が、継父と誤って実母を殺してしまったことを悔いて、矢田地蔵に月詣りを欠かさず、懺悔して母のために祈ったのですが、やがて死して阿鼻地獄に落ちたのでした。しかし矢田地蔵は、康成の志を哀れんで、地獄の炎の中から彼を救い出し蘇らせたのでした。

阿鼻地獄とは無間(むげん)地獄ともいい、八大地獄の中でも親殺しなど重罪を犯した者が堕ちる最悪の地獄で、その苦しみは、最も耐え難いものとされます。その業火の渦中に身を投じて衆生を済度するこの矢田地蔵を、人々は代受苦地蔵菩薩と称して、厚く信仰してきたのでした。

現在の矢田寺の御本尊は、火災で失われて江戸時代に再興されたものですが、元の像の図像をそのまま引き継いでいます。矢田地蔵の最大の特色は、手の印相にありますが、それは親指と人差し指を合わせて丸く結ぶ形で、阿弥陀如来の来迎印のような形をとります。普通に多く見られる地蔵の印相は、右手に錫杖をとり、左掌に宝珠を載せるものですが、矢田地蔵は、この独特の印相から地蔵菩薩と阿弥陀如来を併せ持つ姿として尊ばれてきたのです。

来迎院のような印相を結ぶ矢田地蔵尊 
お厨子に収まる矢田地蔵 手前に据えられた火炎が矢田地蔵尊の地獄での逸話を彷彿とさせる

 

本尊矢田地蔵尊は、激しく燃える炎の向こう、厨子内に安置されます。このような火炎を伴う須弥壇に安置される地蔵尊は、他では見ることができません。身を焼かれるような地獄の只中で、罪深い衆生までも救いとらんとされる、それこそが矢田地蔵尊の代受苦のお姿なのです。

3.中世の矢田寺

先に矢田寺が平安時代平安京の一角に創建されたという寺伝を紹介しましたが、その地とされるのは、今の三条寺町ではありません。矢田寺のもとの地は、今も矢田(やだ)町という町名を残しています。

矢田町は、平安京の条坊で言えば左京五条三坊一保一町南側と二町北側にあたります。今、その地を訪ねるとして四条烏丸を起点にすると、四条通の一本南にある綾小路通を西に入って、南北の通りである室町通を通り越し、次の新町通りを西に越えたところ、京都風に言えば、綾小路通新町西入ルです。

矢田町の街区表示板

 

じつは、この矢田町の街区表示板が付けられているのは、私の親戚の住まいでもある杉本家住宅(※1)です。

昔から、叔父からの手紙や葉書を受け取ると、住所には「下京区綾小路通新町西入」のあとに「矢田町」が必ず書かれていました。実際には「綾小路通新町西入」に番地だけでも郵便は十分に届くのですが、何か、この町名へのこだわりのようなものを感じて、私も叔父叔母従姉妹に手紙や年賀状を書くときには、それに倣って、「矢田町」という町名を書くようになりました。その町名が矢田寺に由来するものと知ったのは、後のことでした。

綾小路通新町西入ル矢田町にある杉本家住宅

 

私が大学2回生のときに、叔父、杉本秀太郎がエッセイ集『洛中生息』(※2)を初めて出版したのですが、その中に「矢田観音堂」の一文があったのです。そこに

ひとつの知られざるお堂が、町なかにある。人々は矢田観音堂(下京区
綾小路通新町西入ル)と呼ぶ。(中略)
いま矢田観音堂のあるところには、むかし矢田寺が所在した。矢田寺は
奈良県生駒郡の矢田金剛山寺の別院で、境域も広かったが、豊臣秀吉が
御土居のすぐ内側に洛中の寺々を移転集合させたとき、矢田寺も、三条
寺町へ移った。

と書かれていたのです。「矢田寺」という寺名を知ったのは、このときでした。

この地にあった頃の中世の矢田寺は、『白川資益(すけます)王記』の文明14年(1482)7月24日条に、六地蔵に参るとして、その六地蔵のひとつに書きあげられています。白川家は花山(かざん)天皇の孫、延信(のぶざね)王が万寿2年(1025)源姓を賜り興した家ですが、代々、王を称して世襲で神祇伯(じんぎはく)という神祇官長官の役を務めた家柄です。興味深いのは、神祗伯の家をしてもこの日に六地蔵詣をすべきという習俗が浸透していることです。貴賎を問わぬ地蔵信仰の高まりがあったことが窺えます。

さらにこの矢田町は、今は祇園祭の「伯牙(はくが)山」を出す町内ですが、応仁の乱以前に「地さうほこ(地蔵鉾)」が出されていたことが『祇園社記』「祇園会山ほこの次第」に記されています。いうまでもなく、矢田地蔵にちなむ鉾だったと考えられます。

この綾小路の矢田寺にあったという梵鐘は、当時の名鐘で知られていたと矢田寺の先代ご住職西尾道博(どうはく)師にお教えいただきました。

綾小路矢田寺の鐘の銘文拓本

綾小路矢田寺の梵鐘銘文の由緒

 

先代ご住職様によると、いつしかこの名鐘が寺から流出し、個人の所蔵となっていたのですが、その梵鐘の銘文を拓本にしたものが見出され、それを大切に表具して遺そうと、表具屋に預けたところ、戦災で表具屋とともに焼失してしまう不運に見舞われたというのです。写しのみが残り、それが今、本堂内にかけられています。拓本の銘文には、「綾小路矢田寺」「応安五年六月廿日」とあります。応安5年は1372年、南北朝時代のこととなります。

今も京都では、お盆に先祖の精霊を迎えるために撞く「迎え鐘」は六波羅の六道珍皇寺、そして精霊を送る「送り鐘」は矢田寺の鐘という習わしが残ります。

送り鐘の利益を説く扁額

綾小路矢田寺の梵鐘が流出した後、後継の鐘も第二次世界大戦中に供出され、現在の鐘は戦後に再興されたものですが、地獄の業火から康成を救い出す《矢田地蔵縁起》のあの場面が鋳出されています。

本堂前に架かる矢田寺の鐘 今も多くの人が八月十六日「送り鐘」を撞くため、詰めかけます

 

4.寺町の歴史 

さて、先に紹介した『洛中生息』に書かれていたとおり、矢田寺が移転した地、「寺町」というのは、豊臣秀吉の京都の都市改造の一環で成立したものなのです。天正18年(1590)、京都の城下町化を図った秀吉は、中世には衰退していた平安京の東京極(ひがしきょうごく)大路を、北はさらに延伸させて鞍馬口通からとし、そこから五条通まで修復再生して、その東側に京中に点在していた寺院を強制移転させて、新たな町を造ったのでした。それまで町衆の生活と信仰に深く関わっていた浄土宗・日蓮宗・時宗などの各寺院を、町衆の居住地から分離し、鴨川の西、洛中の東端に整然と並べたのでした。

国立国会図書館デジタルコレクション『洛中絵図 洛外絵図』写本(元禄以降の地図か)       https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2589694?tocOpened=1  (図は上を西とする) →N手前に流れるのが鴨川 三条大橋を渡ってまっすぐ西に向かうと寺町の東北角の天性寺前町に「矢田寺」とある

今の四条から御池通りまでの寺町界隈を『洛中絵図』で見ると、本能寺と誓願寺が大きな境内を有していることでとくに目立ちますが、ぎっしりと寺院が並んでいたことがわかります。

三条寺町の南東角にある「すき焼き」で有名な三嶋亭の角に、寺町の解説看板があげられている

 

また、絵図に町屋のいちいちは記されませんが、通りの西側には、様々な職種の店が並んでいたようで、江戸時代前期の記録(『京羽二重』・『毛吹草』)を見てみると、石塔細工、御霊前人形細工、数珠、位牌、仏師、絵像、書物、筆屋などの、お寺参りや寺院に必要なものが扱われていたことが見て取れます。さらには、櫛、おしろい、扇、硯細工、角象牙細工、金銀針、馬具、武具関係など、多種多様な細工ものの店もあったようです。

江戸時代には、東海道と通じた京都の玄関口にあたる三条大橋、物流の拠点となった高瀬川にも近く、二条あたりから四条間の寺町は、すでに商業地としての賑わいが色濃くなっていた様子が窺えます。

そういえば、今でも付近には、老舗の仏教書専門店、古書店、念珠屋、筆墨・紙・お香を扱う店、針屋、扇屋、判子屋などがあることにも、江戸時代の業種につながるものを感じます。

三嶋亭の角に掲げられている寺町の歴史と由来

 

しかし寺町一帯は、江戸時代から近代まで再三の火災に見舞われました。宝永、天明、元治の大火のほか、さまざまな火事で何度も焼失、再建を繰り返してきたのでした。寺院、商家のいずれも、おそらく耐え難い災禍を幾度も乗り越え、復興し続けてきた町であったと言えます。

四条寺町 寺町京極商店街のアーケード入口

寺町京極商店街

 

四条寺町から北上して三条通りまでの間(四条、錦、蛸薬師、六角、三条)は、寺町京極商店街と呼ばれるアーケード街で、現在この寺町通りに面して建つ寺院はありません。

しかし、これと並行する新京極商店街の中には、今も八つの寺社が残っています。江戸時代、京都有数の巨刹とされた誓願寺の大きな境内には、縁日の店が並び、見世物小屋などが立つ歓楽地ともなっていました。幕末元治の大火で、誓願寺も伝来の本尊まで失うという事態に陥ってしまいましたが、明治2年(1869)、石清水八幡宮の本地仏を勧請して再興を目指します。同じ頃、維新後に全国の社寺に下された上知令によって誓願寺は境内地の約8割を失うことになりました。

この旧境内地に眼をつけたのが、当時の京都府参事、槙村正直(まきむらまさなお)でした。明治5年(1872)、この地を縦貫する四条から三条に続く新しい通りを整備し、明治10年(1877)頃には、芝居座、浄瑠璃、寄席などの興行施設や飲食店などが並ぶ、繁華街を造り上げました。これが新京極通りなのです。昭和の時代までは映画館が複数以上あったりと、興行施設が並ぶ伝統も、色濃く残っていました。

新京極の由緒を書いた駒札

誓願寺 
新京極通商店街

 

このことで、誓願寺は新京極通りの東側に西面して立つ寺院として再興されたほか、現在も、和泉式部の墓所とされる誠心院、寅薬師の西光寺、通り名にもなっている蛸薬師の妙心寺、安養寺、善長寺、錦天満宮、染殿が、境内地を縮小しながらも、この新京極通りに門を構え、寺町の名残を留めています。

今、七つの寺院とひとつの神社の御朱印巡りが注目されています

 

さて、矢田寺のある寺町三条から御池通までの間(三条、姉小路、御池)は、寺町専門店会商店街と呼ばれるアーケード街となっていて、ここには、商店などを挟みながら、天正期以来の矢田寺、天性寺、そして本能寺が東側に並びます。

寺町と三条の交差点。四条からの寺町京極商店街のアーケードが一旦途切れて、三条から北は寺町専門店会商店街のアーケードが始まる
 
天性寺

本能寺

本能寺の織田信長廟所の石碑

 

大河ドラマで今年注目の「本能寺の変」ですが、これは現在地に移る前の本能寺、つまり四条西洞院でのことでした。本能寺も、同じく秀吉の寺町造成によってこの地に移ったのでした。

 

5.南瓜供養と南瓜炊き

すっかりお待たせいたしました。本題の矢田寺南瓜供養に戻りましょう。

南瓜供養は、比較的近年に始まった行事だと先代ご住職さまから伺いました。それは、近隣の青果店が、洋種の大南瓜を仕入れられ、その活かし方の相談を受けたのが発端だったと言います。

大南瓜を「終い地蔵」の日に矢田地蔵尊の御前で供養し、参詣の人には、別に炊き上げた南瓜を振舞うことになったのだそうです。大南瓜は普通の南瓜のように皮がゴツゴツした緑色でなく滑らかなオレンジ色をしているので、見るからに明るく、またどっかと据えられた姿がなんともユーモラスです。せかせかした師走の気分にほっこりとした和みを与えてくれるようです。

矢田地蔵尊に供えられた三つの大南瓜

大南瓜を撫でて、無病息災を念じます

 

なかでも「撫でて無病息災を祈念してください」と書かれて置かれている大南瓜は、まるでツルツルの坊主頭のようで、つい笑みがこぼれてしまいます。

参詣者の長蛇の列

 

10時からの法要を前に、早くから多くの参詣者が寺町通りに並んでいます。
この列の整理は男性が、また南瓜炊きの準備は女性が当たっておられますが、いずれも檀信徒の方々のご奉仕です。

そして、いよいよ法要が始まりました。

南瓜供養 法要の始まり

 

ご住職様と先代ご住職様のお二人でお勤めになる南瓜供養の法要ですが、ご住職様が大南瓜に加持杖(かじじょう)を添えて、祈念されます。こうして大南瓜は、地蔵菩薩の慈悲の力を参詣者へ分けうる霊物となるのです。

大南瓜への加持が行われる

法要の終わりに、深く一礼をされるご住職様と先代ご住職様

 

法要が終わると、列をなしていた参詣者は、一人ずつ本堂正面に進み、矢田地蔵尊に一年の加護を感謝するとともに、来る年の無事を祈ります。また大南瓜を撫でて、無病息災を。

列をなして、お参りをする参詣者
 
赤い提灯に照らされた本堂前に、参詣者は順に進みお参りを

大南瓜を撫でて、無病息災を念じます

 

さて、いよいよお待ちかねの南瓜炊きのお接待です。鍋にたっぷり炊かれた南瓜は、紙コップに分けられて、手渡されていきます。

南瓜炊きの接待の準備をする女性たち

ホクホクに炊かれた南瓜

 

1000食分とは、なんともたいへんな接待です。奉仕に携わっている女性たちは、おそらく何日も前から手分けして準備をし、また当日も、大量の南瓜を早朝から炊き上げたのでしょう。ホクホクに炊かれた南瓜は、見るからに美味しそうです。

京都では、昔から南瓜の炊いたものを「おかぼの炊いたん」と言います。「菜っ葉の炊いたん」などとともにおばんざいの定番の一つでもありますが、南瓜はあまり醤油を効かさず、薄味の甘い味付けがお約束です。京都の家庭の味の共通の加減のようなものがあるから、町の人が寄り合って作るものに、はずれはありません。

矢田寺のような一般のお参りの方への大々的なお接待ではないのですが、京都の寺院では、檀家さん向けに、法要のあとに檀家の女性たちで作った食事を接待で出す習慣が残っています。たまたま、檀家ではない私も、あるお寺でおよばれしたことがあったのですが、その美味しかったことと言ったら。そこそこ大人数分の食事準備は、数日前から大変な労力をかけられたものであることは、容易に想像がつきます。その奉仕に頭が下がるとともに、またその質の高さにも感服したのでした。

一人分ずつカップに分けられた南瓜

参詣者に配られる煮南瓜

お参りの方に丁寧に手渡される煮南瓜

私たちも列に並んで、お参りの順を待ちます

カップに入れられているので、とても食べやすく、しかもけっこう食べ応えもあります
 
お土産用の煮南瓜は、1パック500円で販売

 

私と写真の高橋さんも、列に並んでお参りさせていただきました。そして、ほんの小額ながら志を供えて、南瓜のお接待も頂戴しました。汁気を少なくほっくりとした炊き上がりにしてあり、あっさりとした甘いお味で、思い描いたとおりの美味しさです。お土産用の煮南瓜を大学に持ち帰ることにして、4パックいただくことにしました。

 

6.「こなし製」の南瓜のお菓子

さてまたまた和菓子のお話をお待たせいたしました。

南瓜のお菓子といえば、洋菓子のパンプキンパイだとか、パンプキンプディングだとか、南瓜を材料にしたものが思い浮かびます。

和菓子でも、南瓜餡を使ったお饅頭などもあります。それも美味しいのですが、京都らしいものとなると、南瓜餡を使ったものより、南瓜の形を写したものを選びたいと思います。

ことに、本物の煮南瓜をいただいた後に、また南瓜のお味を重ねるのは、できれば避けたいとの思いもあります。

今回、取り上げさせていただいたのは、長久堂の「こなし製」のお菓子です。

 

長久堂は、天保2年(1831)に四条室町に創業された老舗の和菓子店です。四条室町というのは、ご存知の方もおられるかと思いますが、かつて呉服商の大店が並んだ、最も中心的な商業地域でした。

長久堂は、初代「新屋長兵衛」が創作した銘菓「きぬた」でよく知られています。これは、絹の反物に見立てたもので、紅い羊羹を芯にして求肥を巻いた棹物です。かつて室町で呉服商をしていた親戚が、私の実家へ来訪の際には、よくこの「きぬた」を手土産に持ってこられていたのを思い出します。呉服にちなんだ、しかも上品なお味の和菓子は、室町界隈でことに愛用されたに違いありません。

その後、四条烏丸に移転され、昭和26年(1951)、戦後、繁華街として大きく開けた四条河原町に移転されたのでした。私が物心ついてお店を知った頃は、この四条河原町に構えておられました。寺町や新京極通りのすぐ近くでもあり、賑やかな繁華街の中心地でした。

平成6年(1994)に、北区の植物園やコンサートホールなどの文化ゾーン近くに、落ち着いた店舗と茶房、そして工場を併設した広い本店を新築されて今に至ります。

伝統の銘菓「きぬた」は、6代目当主の横山長尚氏が自ら作られ、その味を守っておられるのですが、ここで、女性の和菓子職人として、新しい和菓子作りに取り組んでおられるのが髙橋朗子さんです。

今回、鹿ケ谷南瓜を象った和菓子は、髙橋さんの作です。以前にも、この南瓜の和菓子を12月の冬至の時期のものとして、オーダーでお作りになったことがあることを知り、お願いしました。

「こなし」は、先回、真如堂のお十夜に合わせてお作りいただいた緑菴さんのお菓子にも使われましたが、この京都独特の素材の優れたところは、造形的に形を作ることができる点にもあります。

 

優しい手わざでその形を作り上げ、ひょうたん型の明るいオレンジ色の鹿ケ谷南瓜に仕上がりました。実際の鹿ケ谷南瓜は、じつは冬には手に入りにくいのですが、他でもない「京野菜」を代表するもののひとつであり、今はやりのハロウィンの南瓜とは違う、京都らしい南瓜の和菓子を創作するのには、最適な素材と言えましょう。

本物の鹿ケ谷南瓜は、皮がもっとゴツゴツしていて、色も緑や茶色など、とりどりです。それを、これほど愛らしく繊細にまとめられたのは、女性の感覚によるところも大きいのではないでしょうか。

私の大好きな「こなし」独特の上品なお味で、美味しいことはもちろんですが、切ってみると、白餡を込めるだけでなく、表面にほんのり緑色を帯びさせるために、なかに緑色の「こなし」が潜ませてあることに気づきました。こうしたところにも、作り手の創意工夫がよく表れています。

矢田寺の南瓜もそうですが、寒い冬至の時期に、オレンジ色の南瓜の色は、まさに暖かさを届けてくれるもの。一陽来復の色です。

 

さて、矢田寺に話を戻します。

寒いなか、寺町商店街にできる長い列を整然と整理する人、誘導する人、そして接待の南瓜を供する人、これに奉仕しておられるのは、檀家信者の方々というだけでなく、近隣でお商売をされている方々でもあるのではないかと思います。本堂前にたくさん上がっている奉納提灯の中には、寺町界隈のお店の名前も見うけられます。

本堂前に置かれた石のお地蔵さまの前掛けも、信心の方の手作りでしょう。矢田寺のお守りは、フェルト製の手作りのお地蔵さまです。また、この日だけの御朱印に捺されたお地蔵さまと南瓜の印もじつにほのぼのとして、この矢田寺にある親しみやすい庶民性には、大衆の中にある寺としての、中世以来の矢田地蔵尊への信仰が、今も息づいているのを感じます。

奉納提灯には、寺町界隈の商店の名も上がります。石の地蔵には、手作りの前掛けがつけられて

この日だけの南瓜炊きの御朱印と持ち帰り用の煮南瓜が授与されます

愛らしいフェルト製の地蔵のお守り
 
南瓜炊きの日の御朱印 お地蔵様、南瓜の印が押されて独特の愛らしい文字で書かれます

 

最後に、叔父の書いた矢田町「矢田観音堂」の文章の一部を再掲します。

矢田観音の祭日は、八月十七日と十八日である。それは五山送り火の
翌日であり、世間の地蔵盆よりも、ほんの一足早い日付である。いま
もこの日には、町内の人びとが堂に寄りつどってお飾り付けをし、供
物をととのえ、過ぐる一年のあいだに鬼籍に入った町内の死者に対
する観音さまの庇護を乞い、町内家内の安全を祈っている。(中略)

(寺町への)移転にさいして、矢田寺の境内にあった石の観音さま
だけは、一夜にして地中深くめり込み、根が生えたように動かなくな
った。町内の人びとは、これを徳として、ながく矢田観音を大切に守
ってきたのだ。

400年近く前に移転した矢田寺のその跡に遺った石仏を、町の人びとが守り続け、祈り続けてきたことに、この一文を読んだ当時の私も驚愕を覚えました。

今回、矢田寺の先代ご住職さまにお話をお聞きした折、思いがけず、その矢田町の法要に、出向いておられたことを知りました。今は亡き杉本の叔父にも毎年、その法要の場で会っていたとも。

矢田観音堂は、矢田町の私邸の庭先に建っていたのですが、その家の主人が他界されてから、近年、残念ながら法要は途絶えてしまっているということもお聞きしました。

途絶えるもの、新しく生まれるもの、時代を映し変わりながらも続いていくもの。

変化を余儀なくされる時代の大きなうねりの渦中にある今、京都の暮らしに結びついた文化のかたちを、これからも見守っていきたいと願っています。

 

※1 現在は、公益財団法人 奈良屋記念杉本家保存会の管理する住宅となっており、建造物は重要文化財、庭園は国指定名勝庭園となっています。
※2 杉本秀太郎『洛中生息』みすず書房 1976年(第1刷)矢田観音堂p.53〜56

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*本稿は、『瓜生通信』2020年5月15日公開の 【矢田寺の終い地蔵 南瓜炊(かぼちゃだき)と寺町・新京極通り-長久堂 こなし製 鹿ケ谷南瓜】-[京の暮らしと和菓子 #30]の一部を編集し転載しています。

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