歴史遺産コース栗本徳子先生の連載記事「京の暮らしと和菓子」の第16回が届きました。今回は9月に行われた比叡山無動寺谷(むどうじだに)の弁財天のお祭り「巳成金」。紹介される「初雁」は葛菓子の最後を飾るものと位置づけられているようです。
*本欄では、瓜生通信[京の暮らしと和菓子#16]の一部を編集して転載しています。
比叡山無動寺谷の巳成金(みなるかね)と初雁(はつかり)―聚洸(じゅこう) 初雁
edited by・栗本 徳子・高橋 保世
9月の京都は、厳しい残暑、台風21号の猛威、そして秋雨前線による長雨と、なかなか穏やかな初秋を味わうといった気分にはなれない日々が続きました。京都のあちこちにはまだ痛々しい台風の爪痕が残っていますが、そんななか、再び台風24号が列島を縦断しようとしています。近年、ますます9月は激しい気候変動の時期になってきたように思えますが、こうした現実のなかにあればなおさらのこと、清涼な秋らしさを求めてしまうのは人の性というものでしょうか。
晴れた日には空を見上げ、うろこ雲やひつじ雲、すじ雲を見つけると、「ああ、秋…」と深呼吸をしてしまいます。あの酷暑の夏の京都で、どれほど待ち望んだ秋の兆しであることか。実際の気温の低下より先にやってくる雲の変化を見つけることが、昨今の私の9月の迎え方です。
そして、京都盆地の北東方向にある比叡山が、秋の空に映えます。京都東山の北に連なり、ひときわ高く、姿よく聳えるのが比叡山です。ビルの立ち並ぶ四条や河原町あたりでは、今は見えにくくなっていますが、鴨川べりなどに出れば、どこからでもその姿は目につき、京都に住んでいるとなんとは無しにいつも気になるお山なのです。
そして、この山の向こう側に広がるのが琵琶湖です。京都から琵琶湖はまったく見えないわけですが、秋から冬にかけて鳥たちは、琵琶湖と鴨川を行き来します。朝飛んで来て、空が少し紅みを帯びるころ群れをなして帰っていきます。秋の空を行く鳥、そしてそれが遠来からの渡り鳥ならば、いっそう詩情を掻き立てられることになります。
秋風に はつかりがねぞきこゆなる たがたまづさを かけてきつらむ 紀友則
秋風にのって、今年初めての雁の鳴き声が聞こえて来る。遠い地から誰の玉梓(たまずさ)(手紙)を携えてきたのだろうか。哀愁をもった遠くまでよく響く雁の声に、その到来を知るようすが伝わります。このように「初雁」は、雁が秋に初めて渡って来ることをいい、古くから歌に詠まれてきたのです。
今回ご紹介するお菓子は、その「初雁」にちなんだものです。詳しくは後ほどに譲りますが、茶道では9月を代表する和菓子のひとつとされ、裏千家お家元では、9月1日にいただくことが慣わしになっているとお聞きしました。初秋の茶席の趣向として、渡ってくる雁に思いを巡らすのは、実際より季節を先取りすることで秋の到来をより印象的に味わうことを旨としているのでしょう。琵琶湖に雁がやってくるのは、10月に入ってからのことです。その鈎状に折れ曲がって群れ飛ぶ姿は雁行(がんこう)とも称されます。
雁折れる空と湖国のひろがりに 牧ひでを
なんと澄み渡った景色でしょうか。「初雁」を取り上げる数寄者の思いにも、広い水辺を持たない京にあって、広大な琵琶湖とその上空を悠然と行く雁の景色への、憧れというものがあるように私には思えます。
今回、初雁には少し季節が早いことを知りながら、秋の琵琶湖を見てみたくて、写真を撮っている高橋さんとともに出かけました。
早朝に車を走らせ琵琶湖畔を北上し、安曇川(あどがわ)を越える辺りまで。その日は好天に恵まれ、京都より少し涼しい空気と穏やかな湖に秋の日が眩しく輝いていました。湖畔の彼岸花も、京都とは違う趣です。そして渡り鳥ではありませんが、鷺や鵜などの水鳥が、悠々と群れ飛ぶ姿を捉えることができました。
この晴れ晴れとしたひろやかな山水を味わうことは、京都の地では叶わないことです。
さて、今では JRを利用したり車を走らせたりして、好きな時にすぐにも琵琶湖の景色を楽しみに行ける私たちですが、少し前までレジャーや物見遊山にどこか罪悪感を感じる世代というものがあったのも事実です。
京都の寺社参詣を伴う年中行事というもののほとんどに、参詣と結びついた買い物や遊楽があることに気づきます。そうしたところに、逆に参詣だから楽しみごとも許されるといった江戸時代以来の庶民感覚が垣間みえるのです。
私の父母は、戦中、戦後にまたがる時代に幼少期を過ごし、戦後の自由な価値観の洗礼を受けつつも、どこか濃厚に昔ながらの感覚も持ち備えていたように思います。これまでも何度か書いてきましたように、私の実家は、商売人でありながら、神仏の祭り事に日々明け暮れるような古い風習を遺し続けていたわけですから、自然にそのような暮らしぶり、感覚を持っていたかとは思います。
そうしたことを思い出させてくれるのが、9月に行われる比叡山無動寺谷(むどうじだに)の弁財天のお祭り、「巳成金」の参詣です。無動寺谷の弁天堂というのは、あの千日回峰行の行者の拠点である無動寺に隣接したお社です。その歴史は織田信長の焼き討ちのために、史料が残らず詳細を知りえないということながら、開基は、千日回峰行を始めたことで知られる相応和尚(そうおうかしょう)が貞観7年(865)、この地に無動寺を開いた時期に遡るとされています。
伏見の実家には、どういうご縁か、明治初年にこの無動寺谷の弁財天の御霊分けをしていただいたというお社が、裏庭に祀られていました。明治初年という伝承によると、伏見を巻き込んだ幕末明治の動乱期に、呉服商を営んでいた7代目井筒屋伊兵衛の頃のことかと思われます。父は、毎朝子供達に、起床して布団を畳んだのちに、座敷、次ノ間の昔ながらの雨戸を開けること、洗面後に裏の弁天さんの祠(無動寺弁天堂所縁の)、門口の土間の上方に設けられた神棚、そして仏間の仏壇にお参りをしてから、居間の朝ごはんの席につくことを課していました。私と弟妹の3人はゲーム感覚で出来るだけ早く済ませようと競争しながらお参りしていましたので、とても信心を持って日課を果たしていたとは言い難いものでした。とくに戸外の裏庭にある弁天さんは、母屋と離れていたこともあり、暑い日、寒い日、雨の日も、とにかくツッカケ(サンダル)で走って行って、鈴をガラガラ鳴らすや、ポンポンと手を叩いておしまいといったまったく無作法なお参りであったことを思い出します。それでも形ばかりとはいえ、子どもながらにも日々の生活の中にお参りをするという行為が濃密に残っていたことは、今の我が家から思えば驚くべきことです。
さて、その無動寺谷の弁天さんのお祭りが、9月の巳の日に行われる「巳成金」なのです。家人が必ずお参りに行くことになっていたわけですが、今から思えば、このお参りは父母のちょっとしたデートであったように思えるのです。祖父母とも同居していた父母は、当時おおっぴらに二人で揃って何処かに出かけるという機会は、デパートの買い物くらいで、遠出などすることはほとんどなかったように思います。
京都では残暑の厳しい日もまだある9月中旬すぎのこと、比叡山は一足先に秋を感じることのできるちょっとした避暑地的な感覚もありました。比叡山ドライブウェイからの琵琶湖の眺めも素晴らしいものです。お参りには、毎年夫婦揃って出向き、福笹を頂いてきて、それをおくどさんの脇の柱に供えることがおきまりの行事となっていました。子供の頃に、何度か一緒にお参りに行った記憶はあるのですが、巳の日は平日であることも多いため、学校があるときは子どもたちは行けません。それで夫婦でのお参りとなるのは、当然かとも思っていました。
話は転じますが、今から40年前の夏、私は突然、大学院を受験すると決心したのでした。許しを乞うために、思いつめて父の部屋でそのことを訴えたのですが、きっと反対されると覚悟していました。当時は大学を卒業したら、お見合いですぐにも結婚をするという同級生がたくさんいた時代であり、ましてや古い商家に生まれた長女に、簡単に許されることではないだろうと思っていたのです。父は、いくつか私の覚悟を確認したあと、賛成とまでは言いませんでしたが「わかった。お前の人生や。自分で決めたのなら。」と拍子抜けするくらいに、私の選択の自由を認めてくれたのでした。同志社大学では美学芸術学専攻に在籍していましたが、大学院では文化史学専攻に移って日本美術史を学ぶことを決心したために、読んだこともなかった漢文の文献史料の学習、大学受験をせずに同志社高校から推薦入学していたことも仇となり、今更の英文読解、英単語の学習など、ひと夏、睡眠時間を削って一日中受験勉強に明け暮れていました。部屋に籠り続けて、5キロ以上痩せてしまうといった様子でした。
そのような折、9月の月末に迫った大学院受験の10日ほど前にあたる「巳成金」のお参りに、一緒に行かないかと父が言い出したのです。そんな余裕はないと言いたいところではありましたが、なんとなく気分転換もいいかもしれないと、英単語帳を鞄に入れて、両親に同行することにしたのです。比叡山には車で登り、比叡山ドライブウェイの景色を楽しみ、根本中堂などのある東塔の境内に入る前の駐車場で車を降りて、あとは無動寺谷まで歩いて降りていきます。涼しい杉木立の山道を、足元の覚束なげな母とそれに気遣いながら歩く父はいいとして、英単語帳を握りしめて、ブツブツ反復復習しながら伴う娘は、なんとも似つかわしくない参詣者となっていました。とはいえ山あいのつくつく法師が夏の終わりを告げていることに気づくだけで、全く外界を忘れて没頭していた受験生には、まことに新鮮なひとときでした。
そして無動寺谷へと近づくと、その在りかを教えるためにか、「みーなるかねー」という野太い声とゴーンという鐘の音が、スピーカーを通した大音声で聞こえてきたのです。巳は弁財天のおつかいであり、俗に「蛇の皮を財布に入れるとお金が入る」とも言うように、「巳さんがお金に成る」と。なんとも言えないほど商売繁盛のご利益をストレートに言ってのけるこの感覚に戸惑い、あの清浄な千日回峰行の行者の住む谷に、こんな世俗的な信仰が宿っていることに、当時は少なからずショックを覚えたのでした。そして、いよいよ弁天堂が近づくと、父は、「弁財天さんは女の神さんやから、夫婦が仲良くお参りすると妬かはるんや。ここからは別々にお参りするのや。」と私に告げて、両親二人は別れて歩きだすのでした。そのなんとなく照れながら別れて歩きだす父と母に、愛らしいものを感じつつ、私は母と一緒にお参りをし、別にお参りを済ませて福笹を手にした父と、鳥居のところで合流して帰路の山道を登ったのでした。帰りには当時の比叡山ホテルで一服したのも、いつものお楽しみコースだったのでしょう。どこかウキウキした二人の姿を、あとから、なるほど二人の公然のデートだったかと思いいたったのですが、あの日だけは、おそらく根を詰めた娘の様子を気遣って、比叡山への参詣に誘ってくれたのだと思います。そのあとの大学院受験はなんとか合格したのですが、商売繁盛の弁天さんに受験のことをお願いしたという思いがなかったために、ついにお礼参りをすることもなく、ささやかな両親との思い出として記憶に刻みながら、今日までそのままにしてきたのです。
そして今回、本コラムにぜひ紹介したいとの思いで、9月22日(土)、40年ぶりの無動谷弁天堂「巳成金」に、高橋さんとともに出かけたのです。朝は小雨模様の比叡山でしたが、霧雨の中の杉木立が、いかにも幻想的でした。山林はまだ台風で倒れた木々が山積し、荒れた様子が生々しかったのですが、参道は昔より随分と整備されており、さらに今回の台風の後片付けも、おそらくこの日のために急ピッチの作業をされたのではないかと想像しますが、美しく清められ、たいへん歩きやすくなっていました。そして、あのスピーカーの野太い大音声は、上品な女性の声による「みーなるかねー 小判の守りはここより出ます 常には出ません 本日に限ります」との音声に変わっておりました。
お天気のせいもあるかもしれませんが、40年前よりも人出は少なかったものの、熱心なお参りの方々が、朝からの法要、午後からの加持祈祷にまで引き続いて参詣されていました。午前は、無動寺住職の小森秀恵(しゅうけい)大僧正によって開運加持が勤仕されました。延暦寺らしい、美しい天台聲明(しょうみょう)と密教による加持祈祷が厳かに執り行われました。
法要が終わると、多くの参詣者がお札と福笹を求めます。福引きもあり、これも楽しみの一つです。今回信じられないことに、なんと私は純銀の小判のお守りを授かってしまいました。ほぼくじ運などない方と思っていたので、40年ぶりのお参りでこのようなお守りを引き当てたことに不思議なご縁を感じざるをえませんでした。
そして、お昼時になると、信者の方々のお心尽しであるお接待が振舞われました。多くのご奉仕の方も立ち働いておられ、久方ぶりに参詣に来た不信心者には、全く頭のさがる思いがいたしました。
昼からは、白い浄衣に身を包まれた輪番、山﨑慈明師が加持祈祷を勤仕されました。毎日お勤めされているというその加持は、力強く、誠に法験の力を感じるものでした。炉壇の炎を前に太鼓の音とともに、「オンソラソバテイエイソワカ オンソラソバテイエイソワカ オンソラソバテイエイソワカ」という弁財天の真言を皆で繰り返し唱えるうちに、加持祈祷の導師と参詣者が一体となっていくような空間へと、堂内が高まっていくのでした。
祈祷を終えて参詣者の方に向き直ってお話になった山﨑慈明師のお言葉で、俗世の現世利益に答えるような弁財天の信仰が、なぜこの無動寺谷に起こったのかという40年前の疑問が、氷解して行ったのです。
「仏道修行では三種の善知識が必要とされます。一は教授の善知識で師匠であり、二は同行(どうぎよう)の善知識で共に修行するもので、三は外護(げご)の善知識でパトロンとなる人々です。相応和尚は、回峰行の行者を支えるためには外護のパトロンが大切と考えられました。そして、その人々に応えるのには、現世の願いを聞き届けてくださる弁財天が最適とし、ここに弁財天を祀られたのです。」
商人がそのなりわいを継続することは並大抵のことではなく、明日をも知れぬ日々の商いをなんとか守って欲しいという切なる思いが、こうした信仰につながってきたのだということを、齢を重ねた今ならば、素直に納得できるようになっていました。
無動寺谷への交通手段としては、大津坂本からのケーブルがお参りには便利なのですが、お供えに記された奉納者の地名や、お近くにおられた参詣者の方にも尋ねてみたところ、京都方面からのお参りが思いのほか多かったのでした。あとで輪番様に聞いたところ、西陣を母体とする講もあるとのことでした。京都の商人たちが、生死をかけて修行される無動寺の回峰行者を支え、かつ商売繁盛で霊験あらたかな弁財天に、浄財を寄進することで、その外護者となってきたのだということがわかってまいりました。
そして、もう一つお教えいただいたのは、弁財天は甘いものがお好きということです。しかも酸味のある果物は絶対に供えてはいけないと言います。お供えとして、飯(ぼん)=洗い米、汁(じゅう)=小豆、餅(べい)=もち、菓(か)=菓子、根(こん)=(大根、人参、さつまいも、干し芋など)、果(か)=果物に加えて「百味」という百種類のものを用意することが求められます。この百味に何を選ぶのかも吟味が必要なのだそうです。甘いものをお好きな弁財天様のご加護に預かり、京都の美味しい和菓子をこれからも口にしたい私ですが、今月のお菓子も、まさに口福をもたらしてくれる季節を代表する和菓子です。お待たせしました。「初雁」の話に戻りましょう。
「初雁」というお菓子は、黒糖入りの葛の中に、空を渡る雁を象徴したユリ根を入れたものが基本です。9月という時期から、葛を使う夏仕様のお菓子から、秋めいたお菓子へのちょうど移りめ、葛菓子の最後を飾るものとして位置づけられるものでもあります。そのバリエーションとして、餡が入らないものと餡を包んだものがありますが、餡のないものは月のような扁平な円形に成形されることもあります。今回ご紹介する聚洸さんの「初雁」は、漉餡を中に含んだものです。
聚洸さんは、わらび餅でも有名なお店なのですが、こちらのものは、葛とわらび粉を一緒に用いているため、葛だけよりもふるっとしたわらび餅の艶やかさと柔らかさが加わって、独特の風合いとなっています。口に入れると解けるように溶け、そして黒糖のコクが広がります。漉餡はどこまでもあっさりとした上品な甘さで、黒糖と混ざり合って、深みのある味に変化します。そして何より印象的なアクセントになっているのが、ユリ根の食感を残した口あたりです。
夜の景を象徴したとも言われる黒糖の暗い色目が、月夜を渡る雁を包み込んで、9月ならではの侘びた風情をたたえる姿にまとめられます。お味、趣向ともに相まった、絶妙のお菓子と言えるものです。
雁が飛来するのはまだ先のことですが、その季節がきたら再び比叡山を越えて、さまざまな渡り鳥の飛び交う広い空と琵琶湖を見に出かけようと思っています。
亡き父母からの便りを携えてきてくれる雁があるでしょうか。
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