[京の暮らしと和菓子 #21]

壬生寺(みぶでら)厄除け節分会と壬生狂言—薯蕷饅頭 福枡 末富—[京の暮らしと和菓子#21]

written by 栗本 徳子/高橋 保世

節分といえば、近年とみに恵方巻(えほうまき)ばかりが取りざたされますが、これは京都では古くはそれほど行われていなかった風習です。それよりも大事な京都でのこの日の過ごし方は、方々の社寺で独特の行事が行われる節分祭、節分会(え)へお参りに出かけることです。
 私の父は、毎年、必ず吉田神社と壬生寺にお参りし、夕食前の一番風呂に入った後、家の奥から一部屋ずつ豆まきをして回りました。
 「福はうち  福はうち  鬼はあそと」
福を先にたくさん呼びこんでから、「鬼はあそと」で少し大きめの声を出しつつ豆をまくのです。福を豆で追い払ってはいけませんから。
 そして最後に猿戸(大戸に取り付けられた小型の格子戸)から門の方へ豆を放ちます。
 夜には、壬生寺で求めた家族の数の姫だるまと共に、家族全員でのまた特別の習わしごとがあるのですが、これは後に譲ることにいたします。この年中行事を、父は足腰がしっかりしているうちは、欠かすことがありませんでした。
 春分を前にした節分の時期にこそ、新たな春を迎える気分を味わえると、旧暦の正月をしのびながら、吉田神社の境内では「年越しそば」を食すことも慣いとしていました。節分詣を心から楽しんでいたように思います。

今年の節分の夜 大学の千秋堂で豆まきを

さて私はというと、大学に勤務する身にとって一月末から二月初めは、卒業論文や修士論文の試問と重なる時期。節分の日には、父の影響もあって家での豆まきだけは続けていますが、社寺の節分行事に出かけることは叶わない年の方が多く、数年に一度家に近い吉田神社へのお参りがやっとです。
今年こそはほんとうに久しぶりに壬生寺へお参りしようと、2月2日、まさに修士論文の試問を終えてから、写真を撮ってくれている高橋さんを誘って、壬生へと出かけました。

「壬生」という地名は、いまは新撰組の壬生屯所の名で知られているかもしれません。平安京左京を南北に貫く大路の名でもあったのですが、「壬生」は「水生」からの転訛と言われるように、もともと湧き水が多い低湿地をあらわしていたようです。こうした土地柄から、平安京の条里制は徐々に崩れ、次第に農地となっていったのです。
「壬生」は三条から松原の南北間、大宮から西大路の東西間のあたりを指す地名となり、京都の中心地に隣接した近郊農地として機能してきたのです。この湿地を活かして栽培された作物のひとつが漬物で有名な「壬生菜」(水菜の一種)でした。
今ではすっかり市街地となり、その面影を見つけることは難しいのですが、かつて京中の鄙(ひな)とも言える雰囲気が、この地にあったことも知りおくべきかと思います。

壬生寺山門 坊城通りに東面して立つ

現在、綾小路の南、坊城通りの西にある壬生寺は、江戸時代に作られた「壬生寺縁起」によると、平安時代、園城(おんじょう)寺の快賢(かいけん)が地蔵菩薩像を本尊として安置し、寛弘2年(1005)に堂供養して、小三井寺としたことに始まるとされます。本尊地蔵の霊験が朝野に広がり、白河、鳥羽上皇の御幸も同縁起に伝えられます。
当初は現在地より少し東南に当たる五条坊門壬生にあったとされますが、鎌倉時代の建保元年(1213)に三重流(みえりゅう)平氏の平宗平(むねひら)が現在地に寺地を移し、伽藍を建立して寺領を寄付したとされます。
しかしこれは正嘉元年(1257)の火災で灰燼に帰してしまい、正元元年(1259)宗平の子、政平(まさひら)が伽藍復興を行ったのです。じつはこの復興事業には、唐招提寺(とうしょうだいじ)に学んだ融通(ゆうづう)念仏の勧進聖(かんじんひじり)である円覚上人導御(どうぎょ)が大きな役割を果たしました。この繋がりで壬生寺は唐招提寺派の律宗寺院となっています。
導御の教えを聴くために数十万の大衆が参じたということから、彼は「十万上人」と呼ばれていました。導御が、復興勧進のために正安2年(1260)に始めたのが「融通大念仏」であり、一説には、これが壬生狂言の起源になるとされるのです。現在の壬生狂言が、どこまで当初の形を引いているのかは定かでありませんが、寺伝では「壬生大念仏会」として行われている狂言は、正安2年以来途絶えることなく続けられてきたとされます。
さて、「融通念仏」とは平安時代の天台宗の僧、良忍が阿弥陀如来から受けた啓示による「一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行」を説くもので、一人の念仏はすべての人の念仏となり、すべての人の念仏はまた一人の念仏になるというように、まさに互いに念仏や行の功徳を融通しあうことですべての人が皆ともに往生を果たすという浄土信仰です。
大衆に向けられたこうした信仰のあり方を、壬生寺の地蔵信仰に持ち込んで、より大衆と結ばれようと導御が求めた思いは、笑いの中に仏の教えを説く「壬生狂言」に引き継がれていると言えましょう。
そして驚嘆すべきことは、あたかも演劇の古層を見るような壬生狂言を、今演じているのは、プロではなく、かつての壬生郷士や農民の子孫など、代々の壬生の住人を中心にした「壬生大念仏講」の小学生から80歳代の善男子らであることです。

幕間に壬生寺境内でくつろぐ「壬生大念仏講」の子供たち
壬生狂言楽屋の面掛(壬生寺提供)

年間3回の公開として、地蔵尊への奉納として行われる「壬生大念仏会」は4月下旬に1週間、秋の特別公開は10月の体育の日を含む3日間、そして節分には、その前日と当日、厄除・開運の演目「節分」を繰り返し上演する2日間となっていますが、学業、生業の傍ら、みな日々の稽古に精進されての壬生狂言なのです。
京都の人々は、その古拙な無言劇を劇中ずっと鳴らされている「かね」「太鼓」の音から、「かんでんでん」と愛称します。
「節分は、壬生さんのかんでんでんに行こか」と。

さて、まず壬生寺に着くと皆が一斉に向かうのが、炮烙売りの露店です。炮烙に厄除祈願と家族名、年齢などを墨書して寺に納めるためです。これは4月に行われる「壬生大念仏会」の狂言「炮烙割り」で、舞台から落としてすべて割られるのですが、そのことで厄除開運が叶うとされる壬生寺独特の風習です。

表には家族の名前と数え年を
裏に祈願を書き入れる

 

 

 

 

 

 

 

4月「壬生大念仏会」での「炮烙割り」(壬生寺提供)

炮烙を納めて本堂のご本尊地蔵菩薩さまにお参りを済ますと、今度は姫だるまを家族の人数分求めます。
「どうぞお好きなお顔を選んでください」と言われ、素朴な筆使いのために少しずつ違う表情となっているものの中から好みのお顔を選ぶのです。迷いながら選び取ることも楽しいものですが、これは後ほど書きますように、家族一人一人の身代わりの意味を持つので、じつは大切なことでもあります。

愛らしい開運姫だるま

今回、副住職の松浦俊昭様にお話を聞く機会をいただきました。

壬生寺の節分会は白河天皇の発願で始められたもので、豆をまくとは、「魔を滅す」の魔(ま)・滅(めつ)からきているので、壬生寺では人に向かって豆を投げる豆まきはしないのですよとも、お教えくださいました。
また庭園のみは400年前のものながら、中世から近年まで何度も火災にあった歴史から、その度に大切なものの多くが失われてきたこと、それでも壬生狂言は途絶えることがなかったことを語られ、
「狂言はすべて口伝によって伝えられてきました。信者同士の人と人のつながり、講としての結束があったからこそ、火災でものは無くなっても、人が伝える狂言は残されてきたのです」
と結ばれたのが、印象的でした。

境内の「すぐき」の露店

さあ、いよいよ壬生狂言を見に参りましょうと、狂言堂前を見ると、さっきまでの長蛇の列がちょうど入場が済んだばかりとなっています。次の上演まで少し時間もあるので、確かこの辺りではなかったかと、20数年前に来た時にも買い求めた上賀茂の農家が作っている「すぐき」の露店を探しました。ありました。ありました。同じ場所に。
京都の冬の漬物の代表といえば、「千枚漬け」と「すぐき」。母が私を身ごもった時、酸っぱいものが欲しくて「すぐき」ばかり食べていたというので、そのせいか「すぐき」には目がありません。吉田神社でも「すぐき」の露店を見つけると、必ず買い求めてしまいます。私にとって節分詣に「すぐき」は付きものとなってしまっているのです。

 

さて、18時の上演の列に並び、ようやく入場すると、客席前にある売店に、1月にお亡くなりになられた梅原猛先生のご著書「壬生狂言の魅力:梅原猛の京都遍歴」*1が置かれていたのです。恥ずかしながらこのご本を手に取ったことのなかった私は、すぐに買い求めました。

じつは、梅原猛先生のご子息である梅原賢一郎先生には、通信教育部芸術学科での同僚としていつもお世話になっているので、ご逝去の報を聞いた時、賢一郎先生のことを案じながら、同時に日本中から大きな嘆きが立ち上がるのを感じました。「巨星落つ」という言葉を実感する思いでした。
そして、このご本を見た途端、同時に、私の中で叔父にまつわる思い出の連鎖が溢れてきたのです。そう叔父が亡くなった時も駆けつけてくださったのだったなど。
叔父の杉本秀太郎は、フランス文学の翻訳、文芸評論などのほか、生まれ育った京都に関するエッセイなどもよく書いていましたが、梅原猛先生には、とても親しくお付き合いいただき、叔父が晩年に勤めた「国際日本文化研究センター」の初代所長もまた梅原猛先生でした。
叔父が生家の杉本家住宅を維持保存するために財団法人「奈良屋記念杉本家保存会」を立ち上げた時にも、さまざまなお力添えをいただいていたことを聞いていました。
そういえば、叔父が壬生狂言のことをよく語っていたことも。杉本の家は綾小路新町西入るにありますが、その綾小路をまっすぐ西にたどれば、壬生寺に行き当たることになります。叔父と一緒に壬生狂言を見にいくことはなかったのですが、京都の中心部に生まれ暮らした叔父もまた、京都庶民の生活のなかに年中行事として溶け込んでいた壬生狂言を愛していたと思います。
こうしたバラバラな思い出の糸が、突然ゆらめき綯交ぜられた不思議な心持ちで、この日、壬生狂言「節分」を見たのです。若い頃何度か見たはずの「節分」が全く違うものに、新鮮な感慨を持って迫ってきました。

「節分」後家が鬼に豆を投げつける(壬生寺提供)

壬生狂言「節分」は美しい後家(女主人)の所に、彼女を見初めた鬼が姿を変えてやってきて、打ち出の小槌で着物や帯などを次々に出して与えます。鬼が酔いつぶれたすきに、後家は打ち出の小槌を奪いますが、鬼の着物の下の正体に気づき驚くと、鬼が目を覚まします。打ち出の小槌を取られた鬼は後家に掴みかかろうとしますが、けっきょく後家が豆をまいて鬼は追い払われてしまうという筋立てです。身振り手振りの面白さとまんまとやられてしまう鬼のなさけなさなど、素朴な笑いを誘うものです。
じつはこの鬼の登場前、狂言の前半なのですが、後家が節分の用意をしていると、厄払い(やくはらい)がやってきて、まじないを言祝(ことほ)ぐのですが、無言劇なので全てパントマイムで呪文をあらわす面白いくだりがあります。その頰かぶりしたひょっとこ面の顔と滑稽な身振りを見た途端、再び叔父の文章のことを思い出しました。
確か「やっこ払いまひょ。やっこ払いまひょ。」という厄払いのことをどこかで書いていたことを。

壬生寺 北門

狂言が終わり外に出ると、とっぷり暮れていました。家に帰ってさっそく叔父の本を探してみると、

節分の夜、厄払いが表の通りを歩みすぎていったのは、もはや遠い日のことで、昭和十六年、十七年頃がさいごだった。

「やっこ払いまひょ。やっこ払いまひょ。」
そう早口に、つぶやくようにくり返しながら、厄払いは暗い小路をとおりすぎた。
店の間の格子に両腕でぶらさがり、首を伸ばして、格子のすき間から暗い路上を私は見渡した。

と幼い日の思い出を『洛中生息』*2の中で書き記していました。そして、

もしもあの夜、おとなの許しを得て厄払いを呼びとめていたら、男は家の門口で、春をことほぐめでたい文句を唱えたはずである。

やあらめでたやな めでたやな
鶴は千年 亀は万年
東方朔(とうぼうさく)は九千年(くせんねん)
三浦の大助(おおすけ) 百六つ
いかなる悪魔がきたるとも
このやっくはらいがひっとらまえて
西の海へ  と思えども
近く鴨川水底(みなぞこ)へ サラリ
やっこ払いまひょ やっこ払いまひょ

節分の午後が閑暇であったら、私は壬生寺にいって厄除けの炮烙を納めるか、あるいは聖護院の須賀神社でつるめその売る懸想文(けそうぶみ)を求めるかするだろう。生憎く、節分の日がかならず勤め先の入学試験日と重合するので、当分は炮烙にも懸想文にも手が届かない。

と、壬生寺のことにも触れ、やはり大学業務でままならない節分を書いていました。おそらくこの壬生寺の節分では、文の中にはことさら書かれていませんが、狂言「節分」の厄払いと、幼い日に垣間見た厄払いのことを思いの中に重ねていたに違いないと、了解しました。叔父にとってかつての暮らしの中の消えそうなでも強烈な京都の町の面影が、狂言の世界に地つづきであったことを、改めて知ったのでした。

私にとっても、こうした遠い日に詰め込んだ引き出しが開きだすと次々に、呼び覚まされ、立ち現れてくるものがありました。
そういえば、飾り棚に大切に飾ってあった梅原猛先生にサインをしていただいた一合升は、叔父の文学賞の受賞祝いのパーティーの席でのものだったはずだと、取り出してみました。そこには梅原先生だけでなく、桑原知風との桑原武夫先生のサインもあります。梅原先生はもちろんですが、桑原先生は、叔父の恩師にあたる方で、言うまでもなくフランス文学や評論で京都学派の泰斗としてその名を知られた、私にとっては別世界の方でした。
底に叔父のサインがあり、1978年の4月であったことがわかりました。祝いの席には、親戚であるうちの実家の酒がおかれていたのだと思います。
しかしこの会は、叔父の学者仲間、大学での友人関係の方を中心にしたもので、家族以外で縁つづきのものは、私一人だけでした。きっと少し場違いな娘がいるという感じだったのだと思います。受付など細々したお役は、若い日の梅原賢一郎先生が務めてくださっていたことを覚えています。
そして、おそらく叔父が、先生方に姪である小娘の私を紹介してくれたのだと思うのですが、誰かに勧められて先生方のサインを頂戴することになったようです。
同席した顔見知りの先生に「これは、宝物になりますな」と言われた言葉どおり、大切においていたものです。

41年前の桑原武夫先生と梅原猛先生のサインをいただいた枡

翌日の2月3日の節分の夜、私は前日に買った梅原先生のご本を開きながら、先生に献杯するつもりでこの枡に酒を満たしました。

ご著書では、壬生狂言の特徴ある演目を取り上げて、様々にその魅力を語られていますが、私が惹かれたのは、他の研究者があまり触れていない融通念仏の導御が、なぜ地蔵信仰の壬生寺で活動したのかという点について、論じられているところです。

壬生の地は都の中にあるとはいえ、決して肥沃な地帯ではなくして湿地帯
であった。それには農業にも住宅地にも適当ではない。様々な悩みを持つ人々
の住む地であった。おそらくそのような過酷な条件の地に住む人にはいくら
法然上人などが無知なる悪人こそが阿弥陀の救済の主体であるといっても、
容易には信じられなかったであろう。自分が今住んでいるこの場所、即ち娑婆
は地獄であり、それ故、仕方なく悪行を犯さねばならない自分が往く未来の世
界も「地獄は一定(いちじょう)」であると思わざるを得なかったであろう。
或いは「地獄一定」と考えた親鸞などより百倍も千倍も「地獄一定」の実感を
持っていたのかも知れない。それ故、このような人々を救済するのは地蔵菩薩
しかないという強い信仰の確信が導御にあったのではなかろうか。

六道にまで救いの手を差し伸べる地蔵に対する民衆の信仰が高まっていたこの時代、壬生に限らず、生きづらいこの世の次に、どのような世界に輪廻転生するのかという、どうしようもない恐怖感を持っていた当時の人々をみごとに描き出していると思うのです。
在りし日の梅原猛先生の講演のときのお姿が蘇ってくるのですが、虚空を見つめながら、思考の中で立ち上がってきた時空を超えた世界が、眼前にあるかのように語られる、その説得力が、ここにもあるように思えます。中世の苦悩する民衆の声を、耳そばだてて聞き入ることで見えてきたものを、まっすぐに語られる梅原先生の姿を見る思いがするのです。
こうしたこの世の重苦しさを笑い飛ばすように、壬生狂言はあくまで愉快な滑稽劇です。庶民は笑いながら、心が晴れたり、身につまされたり、そんな心の動きが、尽きない魅力を持ち続けて、これほどの歴史を形づくってきたのだと私は確信します。

さて、庶民の節分の楽しみは、ほかにもあります。父が買ってきた姫だるまでの家内の年中行事です。まず、家族がおのおの自分の好きな顔の姫だるまを選びます。
そして、このだるまにお昆布で裃を作って着せるのです。お昆布に首を通す穴を開けてかぶせ、別の四角いお昆布を扇のように畳んで袴に見立て、紅白の水引を帯にします。こんな遊びももう知っている人は少ないかもしれません。

そして、めいめいが自分の数え歳の数の豆をかぞえ、それを半紙に包みます。これは神棚に供える分です。同じようにもう一度、数え歳の数の豆を、今度は自分で食べるのですが、この時、まずは自分の姫だるまさんに一口酒を差し上げて、それから自分でも飲みます。豆を肴におちょこ一杯分のお酒をちびりちびりと姫だるまさんとともにいただくのです。今のものでは塗料が違うのでそうなりませんが、昔のおそらく胡粉を塗った白い顔は、お酒で濡れると下の赤色が染みてきて、酔いで頬を染めていくようなほんのりとしたピンク色になっていくのです。
「ああ、姫だるまさんも 酔わはった」
と、みなで大笑いの節分の団欒でした。そして1年間、姫だるまは、神棚に上げられて、家族の守りを果たしてくださるのです。

歳の数だけ豆をとります
だるまさんもちょっとお飲みやす

枡にいっぱいの豆は、年寄りが数を読み出すとあっという間に減ってしまいます。年寄りたちは「こんなにたくさん 一度には食べられへんわ」と言いながら、翌日にまで持ち越したりして、それでもきっちり数え歳の分をいただきます。豆に暮らせるようにとの願いを込めて。

この節分に欠かせない枡と豆をかたどったものが、末富さんの薯蕷饅頭(じょうよまんじゅう)「福枡」です。薯蕷饅頭の皮は、山芋を入れてもっちり、しっとりしていて、ほのかにする山芋の香りも誠においしいものです。小麦粉饅頭とは違って茶席などで使う上生菓子の饅頭です。
でも、饅頭は丸いもののはず。それを枡の形の立方体に作ることなど、誰も考え及ばない発想に、まず舌を巻きます。ヒノキの枡に倣ってでしょう。木の色に似せた皮の色、対角線に鉄の棒を渡した鉉(つる)掛け枡の形を上辺に焼印で表したのも愛らしく、また枡にかなった素朴な風情を漂わせます。しかし、じつはどこまでも技を尽くしたお菓子であることは、素人の目にも明らかです。

その上、何より嬉しいのは、この時期に美味しい白小豆の餡が、つぶあんで入っているのです。白小豆は収量の少ないもので、とても贅沢な白餡の材料です。白小豆ならではの皮の薄い上品なつぶあんは、赤い小豆にはないさっぱりとした味わいで、私の好物のひとつでもあります。おそらく、これを枡いっぱいの豆に見立ててぎっちりと立方体の饅頭に詰めたのも、まことにめでたい節分のお菓子としての姿を求めてのことでしょう。
このお菓子をいただくたびに、「どないです、この仕立ては?」という作り手のお菓子に込めた愉快な遊びを感じてしまう私なのです。

参考文献:

梅原猛, 西川照子 著『壬生狂言の魅力 : 梅原猛の京都遍歴』淡交社 1997年

杉本秀太郎著『洛中生息』みすず書房 1976年

京菓子司 末富 本店

住所 京都市下京区松原通室町東入
電話番号 075-351-0808
営業時間 9:00~17:00
販売期間 1月26日〜2月3日※取り扱い店舗についてはホームページをご確認ください
定休日 日曜・祝日
価格 1個519円(税込)

http://www.kyoto-suetomi.com/

 

*本稿は瓜生通信 壬生寺(みぶでら)厄除け節分会と壬生狂言—薯蕷饅頭 福枡 末富 [京の暮らしと和菓子 #21]の一部を編集して掲載しています。

 

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