[京の暮らしと和菓子 #19]

六波羅蜜寺 空也踊躍(ゆやく)念仏と師走の大和大路界隈―ZEN CAFE ゆり根きんとん[京の暮らしと和菓子#19]

edited by 栗本 徳子/高橋 保世

平成30年の年の瀬が迫ってまいりました。毎年この師走という月はあっという間に、慌ただしく過ぎていく感を否めませんが、京都ではそういう中に古くからいろいろな行事が散りばめられていて、気ぜわしさを束の間でも忘れさせてくれるような気がします。
 まずは南座の吉例顔見世興行が京都の師走には欠かせません。今年は南座発祥400年と耐震工事改修後の新開場記念として、11月と12月、それぞれ演目を改めての2ヶ月に及ぶ顔見世興行となっていて、ひときわ華やかさを加えています。
 先月は松本白鸚、幸四郎、染五郎の襲名披露を兼ねた演目で、私が拝見した夜の部の「勧進帳」は、まさに親子孫の三代勢ぞろいの見事な舞台でした。
 そして今月は、今年の8月に中村芝翫さんのテレビ番組でご一緒したご縁から、ぜひ顔見世での芝翫さんを拝見したいと、昼の部に出かけたのでした。昨年末に襲名された芝翫さんにとって、「中村芝翫」のまねきを南座にあげられるのは、この顔見世が初めてとなります。
 「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」寺子屋の段では、松王丸を演じられたのですが、主君の首検分を買って出るという悪役ぶりと、じつは主君の身代わりに我が子を犠牲に差し出していたというのちの展開で、子を悼む父の姿の情感とを見事に演じ分けられて、まさに胸を打たれる名演でした。

南座の表に掛かるまねき看板 菅原伝授手習鑑 中央が松王丸
南座 まねき看板 ぢいさんばあさん

森鴎外が原作という「ぢいさんばあさん」は、武家の仲睦まじい夫婦の物語です。若い夫が、藩の役向きで1年間の上京の間、京都鴨川べりの料亭で行きがかりの殺傷事件を起こして他藩御預けの身となり、夫婦は35年間会うことも叶わずに、すっかり老いて再会するという筋立てです。夫婦を演じた片岡仁左衛門と中村時蔵の若さと老いのそれぞれの所作の使い分けの見事さと、ほほえましくも情愛深い二人の姿に心打たれるお芝居でした。この時の殺傷事件の相手となる少々くせ者の同僚役を芝翫さんが演じられていたのですが、これも嫌みな悪役をまさに好演されていて、重要な役回りを果たしておられました。

素人が勝手な感想を書き連ねるのもまことに失礼ながら、テレビのお仕事でご一緒した折の穏やかで優しい芝翫さんとはまた違う、歌舞伎役者としての脂ののった芸の迫力と奥深さを目の当たりに拝見することができ、改めて感銘を覚えました。

南座まねき看板 鳥辺山心中

今回の顔見世では、特に南座の地元を意識した演目がいくつか取り上げられていたのですが、「鳥辺山心中」も、江戸中期の京都での心中事件を題材にしたものです。将軍上洛に従って上京した旗本菊池半九郎と清純な祇園の遊女お染の愛情を描きます。思いがけぬ成り行きで鴨の川原で友人の弟を斬り殺してしまった半九郎の死の覚悟に、お染もともに従うと、二人は正月のために新調していた晴れ着を死装束として、鳥部山へと死出の道行きを選ぶのです。

この「鳥部山」とは、本コラムで8月の六道まいりを取り上げた折にも触れましたが、平安時代から都の葬送の地とされてきたところです。そこへ向かう途上、冥土への入り口と目される地が、六波羅です。ここ一帯には、かつては愛宕(おたぎ)念仏寺や閻魔堂などもあり、現在も平安時代に由緒を遡る六波羅蜜寺、六道珍皇寺、西福寺などの諸寺が立ち並んでいます。お染、半九郎もちょうど12月の寒夜の道を、鴨の川原からこの六波羅の地を過ぎて、鳥部山を目指したということになりましょうか。

六波羅蜜寺

さて、今回12月の京の年中行事として取り上げたいのは、その六波羅蜜寺での「空也踊躍(ゆやく)念仏」です。後ほど詳しく記しますが、この独特の念仏は、六波羅蜜寺で12月13日から大晦日まで、毎夕4時から執り行われているものです。
空也といえば、学校の歴史教科書に載っていた彫像を思い起こされる方も多いことでしょう。六波羅蜜寺に蔵されている本像には胎内銘文があり、運慶の四男康勝による作であることが知られており、その写実的な作風で鎌倉時代慶派の代表作のひとつとされるものでもあります。脛もあらわに粗末な短い衣をつけて、左手に鹿角の杖をついて草鞋(わらじ)履きの足を一歩踏み出し、胸に金鼓(きんこ)をかけ、右手に撞木(しゅもく)を持って、やや上方にあげた顎(おとがい)の開いた口から六体の阿弥陀如来が表出されます。おそらく鎌倉時代の、鐘を打ち鳴らしながら念仏を唱えて町を行く、実際の念仏聖(ひじり)の姿を写し取ったものなのでしょう。そして鎌倉時代のこうした念仏聖の祖とされていたのが、まさに空也なのでした。平安時代中期という早い時期に、誰よりも早く市中に出て、口称(くしょう)念仏、つまり口で「南無阿弥陀仏」を唱えることを説いた人物でした。

空也(903−972)の生涯は不明な点も多く、醍醐天皇の第五皇子とも、仁明(にんみょう)天皇の第七皇子常康(つねやす)親王の子とも伝えられますが、平安中期の学者である源為憲(みなもとのためのり)が、空也の一周忌に著したとされる『空也誄(るい)』には、
「これ天禄三年九月十一日、空也上人(しょうにん)、東山西光寺に歿せり。ああ哀しきかな。上人、父母を顕(あらわ)さず、郷土を説くことなし。」
とあり、自らその出自を語らなかったことがわかります。
『誄』によると、その前半生は、優婆塞(うばそく)(在俗の仏教信者)として諸国を遊歴し、道を治したり、水脈を見出したり、曠野(こうや)に遺骸があれば、集めて油をかけて焼き「阿弥陀仏」の名を唱えたりし、20歳の頃、尾張国分寺でみずから出家し、「空也」と名乗ったとされます。
 さらに各地を巡り、天慶元年(938)に京に入り、市中を乞食(こつじき)しては貧しい人に施し、仏事を営み「市聖(いちのひじり)」と呼ばれ、また常に「南無阿弥陀仏」を称し、「阿弥陀聖」として天下に知られたとされます。
 10世紀末に『往生要集』を著した「源信」や、平安時代末から鎌倉時代初期にかけての浄土宗や浄土真宗を開いた「法然」、「親鸞」のような人物が出るよりかなり早い10世紀前半に、念仏を京都の市中で広めたという空也は、まさに先駆的な念仏の祖師であったと言えましょう。
 空也は十一面観音像を造立し、さらに13年をかけて金字大般若経六百巻の書写、完成後に鴨の川原で大々的な供養会(くようえ)を行いますが、常に京都市中で疫病や貧窮にあえぐ庶民のもとでの活動に徹しています。そして、空也の活動の拠点に営まれた西光寺を基に、貞元2年(977)、弟子の中信(ちゅうしん)が伽藍を建立し、六波羅蜜寺と寺名を改めて天台別院としたのが同寺の始まりです。その後、文禄4年(595)に智山派真言宗となり、今日に至ります。さて同寺の「空也踊躍念仏」ですが、これは長らく密かに「かくれ念仏」として伝えられてきたものでした。鎌倉時代初期、法然の浄土宗の普及で、興福寺や延暦寺が専修(せんじゅ)念仏の禁止を強く要請することとなり、さらに後鳥羽院の女房が法然の弟子により出家したことに院が激怒し、建永2年(1207)に専修念仏禁止令が発布されます。「建永の法難」と呼ばれる弾圧でしたが、これをきっかけに六波羅蜜寺でも念仏を公にすることができなくなったということなのです。しかし驚くべきことに歴代住職による口伝と薄草紙と切紙によって、密教で修する十一面法(本尊十一面観音への修法)の中に組み込むことで隠すように伝承されてきたというのです。長らく隠されてきた独特の念仏は、昭和51年(1976)に、初めて1213日から30日までを一般公開されることとなったのです。なお結願の大晦日のみは、今も非公開で行われています。

今回、特別に念仏の撮影をお許しいただくことができました。その流れを写真を交えて簡単に辿ることにいたします。

まず導師のほかに4名の職衆(しきしゅう)が入堂し、大壇の周りにつきます。最初は十一面法の修法から始まります。

カンカン カカカカカン カカカンカカカン カカカカカン

と金鼓がなり、十一面観音への発願、そして光明真言が唱えられます。

オンアボキャー ベイロシャノー マカボダラー マニハンドマー 
ジンバラー ハラハリタヤウン

真言宗の我が家でも、毎朝父が唱えていた聞き覚えのある真言です。
このあと、いよいよ首から掛けられた金鼓を打ち、「ノーボーオミト ノーボーオミト」という聞きなれない念仏の声が発せられ、右へ左へ身体を振りながら、大壇の周りを回り始められます。

そして、これまた聞いたことのない「モーダー ナンマイトー モーダーナンマイトー」の念仏が唱和されます。この時身体を下向きに屈したり、上を高く仰いだりしながら金鼓を打ちながら行道を続けられますが、徐々にテンポが早まり、激しくなっていきます。まさにこれが踊躍念仏の法悦の世界なのでしょう。

ところが、その念仏が急に終わったのです。一旦退出された導師と職衆が、何事もなかったように戻ってこられ、再び十一面法の修法の結願が行われます。

静かに十一面法が終えられます

ご住職様の川崎純性師によると、この不思議な聞きなれない念仏は、阿弥陀の念仏であることを隠すため、また突然に念仏が終わるのもいつなんどき取り締まりがあるかもわからない状況の中で行われたことの名残だそうです。
長い年月のうちに独特の形で伝存してきたこの「空也踊躍念仏」は、京都の他の六斎念仏とともに重要無形民俗文化財に指定されているものでもあります。

最後に聴衆もともに7回の「モーダーナンマイトー」を唱え、内陣に進んで焼香をし、護符を頂戴することができました。
同じくご住職様の教えとして、このお参りは一年間の罪業消滅を期するもので、知らぬうちにも犯してきた罪を払って、新年を迎える準備をするというものだそうです。「空也踊躍念仏」が終わったのは、4時半を少し回り、あたりもそろそろ暮れなずんで来たころです。
小腹のへった参詣のあとといえば、例に違わずやはり甘いお菓子を求めてしまいます。今回はこの時期にだけ食べることができるZEN CAFEの「ゆり根きんとん」を目指して、写真を撮ってくれている高橋さんと一緒に大和大路を北上しました。
12月13日は、京都では「事始め」。正月準備を始める日となっています。近年は、百貨店の年末商戦で、お歳暮は12月1日に贈ることになってしまっているようですが、両親は長らく「お歳暮は12月13日を迎えてから」と言っていました。京都ではこの時期から、少しずつ様々な正月準備が進められます。そして12月下旬の大和大路は、もうすっかり正月の気配を漂わせています。

大和大路に面してある建仁寺の塔頭(たっちゅう)禅居庵には、摩利支尊天が祀られていますが、ここは珍しい猪狛が参詣者を迎えてくれます。ちょうど来年の干支でもあり、一足先に、お参りをいたしました。

建仁寺塔頭 禅居庵 摩利支尊天堂 八坂通側
摩利支尊天堂の猪狛

正月に入ると参詣者で賑わうゑびす神社も、まだお参りの人影はまばらですが、正月準備はすでに整っていました。
 そしてこの通りには、本学の三味線部もお世話になっている和楽器店「金善楽器店」や、祇園の芸舞妓さんをはじめ、女性の足元を彩る装履(ぞうり)や下駄を調整されている「祇園 ない藤」が並びます。「祇園 ない藤」は、すっかり正月準備の整ったお店先となっておりました。

「金善楽器店」
「祇園 ない藤」

 

 

 

 

 

 

 

そして、四条通りの手前で、東に抜けるやや細い道を右折し、次の角を左折した奥まった通りにあるのが、「ZEN CAFE」です。ZEN CAFEは、祇園の老舗菓子店「鍵善良房」が出されているお店で、和菓子とコーヒーや日本茶をゆっくりいただくことができる京都ならではのカフェと言えます。照明や机などにはアンティークなどが用いられ、椅子は迎山直樹氏の手になるもので、じつに心地いい空間が用意されているのも魅力です。

ZEN CAFEの入り口
アンティークの照明と本学の卒業生で通信教育部日本画コース講師の米田実先生の黒豹
アンティークの机と迎山直樹氏の椅子

 

 

 

 

 

 

 

ゆり根きんとん

さあ、心地の良い椅子に身を預けて、ほっこりと「ゆり根きんとん」をいただきましょう。ゆり根は特に関西では正月料理や、少し「よそゆき」の来客用の和食によく使われる食材ですが、これをふんだんに使った「ゆり根きんとん」は、まことに贅沢な和菓子です。ゆり根のたくさん出回るこの頃だけの、お持ち帰りはできない上生菓子として、このZEN CAFEで供されています。ゆり根は、とても繊細な食材で甘く煮過ぎるとその風味をすっかり損ないます。また時間が経ってしまうとこれまた風味が薄れてしまうのです。それを繊細なきんとんに仕上げた姿も、この季節らしい雪を連想させる風情です。

その風味を邪魔しないために使われる餡も、じつに難しいのがこのきんとんです。こちらではほんのりと香る柚子を加えた白餡で、ゆり根の風味に冬らしい柑橘の香りを絶妙のバランスで合わされています。そして後味に、ほんのりとゆり根のほろ苦さが残るのが、ゆり根きんとんの真骨頂、なんとも言えず大人のお菓子です。
 すっかり豊かな時間を過ごさせていただいているうちに、もう閉店の18時。外はとっぷりと暮れ、四条通りに出ると先ほどの静寂が嘘のような賑わいでした。
 そして、ひときわ明るい南座では夜の部の一幕目まっ最中の時間でした。そう「義経千本桜」も素晴らしかろうなと、また改めて華やかな「まねき」を見上げました。

 

ZEN CAFE

http://www.kagizen.co.jp/store/

 *京都造形芸術大学のWeb サイト『瓜生通信』に掲載されている[京の暮らしと和菓子#19]の一部を編集して転載しています。

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