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伏見稲荷大社の御火焚(おひたき)とお火焚饅頭―いなり ふたば お火焚饅頭
editedby 栗本 徳子/高橋 保世
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今年の秋は、気温が下がらず、紅葉も遅れ気味と言われていましたが、それでも11月の京都は、ひときわ多くの来訪者で賑わっています。なかでもシーズンに関係なく、とくに海外からの観光客の気を博しているのが伏見稲荷大社です。
全国の3万社におよぶ稲荷神社の総本宮として、常に全国からの参詣者を迎えてきた大社ではありますが、近年は、外国人観光客で境内が埋め尽くされるような様相です。しかも、本殿や有名な千本鳥居周辺だけではなく、稲荷山山上のお社へと続く参道の賑わいも、今やそのほとんどが外国からの参詣者で占められているようです。
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海外の方がたにとっての人気の理由は、やはりどこまでも続く朱い鳥居の参道の美しさ、鬱蒼とした山中、山上に広がる多くのお社やお塚などの神秘的な世界への憧れなのでしょうか。そうした文化景観が世界から認められていることに、素直に嬉しさを感じますが、そのあまりにも多い来訪者に少々圧倒されてしまう今日この頃でもあります。
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さて、ここではまず伏見稲荷大社の歴史を簡単に振り返っておくことにいたしましょう。稲荷大社の鎮座する伏見深草地域は、弥生時代からの稲作が行われていたようで、木製農耕具などが深草遺跡から見つかっており、古くから農耕が発展していた地域であったことが知られます。
伏見稲荷大社の起源にさかのぼる記録は『山城国風土記(やましろのくにふどき)』逸文の伊奈利社の条に秦(はた)氏の伊呂具(いろぐ)という人物が餅を的にして矢を射たところ、餅は白鳥となって山の峰に飛んでいき、降り立ったところに稲が生えたことにちなみ、「いねなり」が「いなり」という社名になったとあります。また『延喜式神名帳頭註』には、和銅4年(711)2月に御鎮座になった旨が記されます。
平安京ができる前にすでに稲荷山への信仰が確立し、また地元の豪族秦氏と深い関係があったことが伺えます。ところが、平安京ができることで、さらに大きな変化も生じたのです。
それは、東寺との関係の深まりです。いうまでもなく東寺は平安京の都城プランの中に、西寺(さいじ)とともに計画された国家鎮護・王城鎮守のための寺院です。平安京の中心を南北に貫く朱雀大路の南の入り口に置かれた羅城門を挟んで西に西寺、東に東寺が造営されたのです。遷都後の着工からかなり時間がかかり、まだ造営途中であった東寺を弘仁14年(823)、嵯峨天皇は空海に与えたのでした。
後世のものですが、その空海と稲荷社との逸話が残されています。
稲束を担い杉の葉を携え二人の子を共に従えた老翁が東寺の南門に現れ、空海がこの老翁を鎮守神として祀ったとされます。この老翁が稲荷神と結びついていたもので、こうした東寺との関係を色濃くあらわすのが、伏見稲荷大社の御旅所(おたびしょ)です。
驚かれる方も多いかも知れませんが、伏見稲荷大社の氏子地域は、地元伏見区にはないのです。鴨川を西に渡った南区と下京区の東部にあたる地域で、北は五条通り以南、西は千本通り以東、南は十条あたりまでの平安京の東南部周辺にあたります。そして、春の大祭の折には、神輿はその氏子地域に渡されて、東寺の東に位置する御旅所にとどまられるのです。
じつは伏見稲荷大社の門前や地元地域は、すぐ南に隣接する藤森神社が氏神となっていて、藤森神社が深草一帯の産土社となっているのです。
このように、伏見稲荷大社は、むしろ平安京との結びつきが強い神社として発展したことが伺えます。そして朝廷との関係も深まり、天長4年(827)に従五位下の神階が授けられ、次第に累進して、天慶(てんぎょう)5年(942)には、ついに正一位という最上位にまで昇り詰めたのです。
延久4年(1072)、後三条天皇が祇園(ぎおん)社とともに伏見稲荷大社に行幸(ぎょうこう)して以後、両社行幸のことは恒例となり、鎌倉時代まで続きました。
その後も、常に時の為政者らの帰依を得て発展し、特に近世には全国に分社が広がり、五穀豊穣や商売繁昌を願う庶民信仰としても大いに拡大していきました。そしてその祈願成就の証に奉納されたのが朱い鳥居であり、全国の信者の寄進によって参道が覆い尽くされるという今日の伏見稲荷大社の景観が生まれたのです。
そして、こうした庶民の厚い信仰と結びついた11月の年中行事が、「お稲荷さんのお火焚き」なのです。
現在、伏見稲荷大社で11月8日に催されるお火焚きについて、同社の説明書によると「農耕前に里に迎えた神はやがて作物に宿り 秋の豊穣をもたらすことになるが この火焚祭は藁を炊き上げて 一年の五穀豊穣を感謝するお祭りです」
と記されます。まさに稲荷信仰の本質である五穀豊穣を喜び、また祈念する神事と言えます。元は旧暦の霜月(11月)8日に行われたお火焚きは、今なら12月頃、寒さが深まってきた時期の行事ということになります。
おひたきや霜うつくしき京の町 蕪村
蕪村が、冬の気配に覆われた京の町と共に詠んだことで、お火焚きは農村だけではなく、京の町にも親しい行事であったことがわかります。
じつは京の商工業者の間でも、お火焚きは大事な神事だったのです。家でも庭火を焚き、火前に供物を献ずることが行われました。なかでも火を扱う鍛冶屋、窯業、飲食店などではとくに重んじられた行事でした。
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伏見稲荷大社には、平安時代、京都三条に住まいした実在の刀鍛冶、宗近(むねちか)の逸話も残されています。のちに能や長唄で「小鍛冶」として取り上げられた伝説で、三条小鍛冶宗近が、稲荷明神の神通力を受けて白狐を相槌に「小狐丸」という宝剣を作り上げるというものです。
先月の本コラムでも少し書きましたが、かつて私は、娘時代に長唄を少々習っていました。その時に、この「小鍛冶」も教わった思い出の曲の一つです。刀を打つような調子の小気味良い勇ましさのある唄が、大好きでした。改めて今その詞を見てみると、ちょうど今頃の晩秋を唄ったものであることに気づきます。
「小鍛冶」
稲荷山三つの燈火(ともしび)明らかに 心をみがく 鍛冶の道 子狐丸と末の世に残すその名ぞ著(し)るき それもろこしに 伝へ聞く 龍泉太阿はいざ知らず 我が日の本の金工(かなだくみ) 天国(あまくに)天の座(あまのざ)神息(しんそく)が 国家鎮護の剣にも 勝りはするとも劣らじと 神の力の相槌を 打つや 丁々しっていころり 余所(よそ)に聞くさへ勇ましき 打つといふ それは夜寒の麻衣 をちの砧も音そへて打てや うつつの宇津の山鄙も都も秋ふけて 降るやしぐれの初もみぢ こがるる色を金床に 火加減湯かげん 秘密の大事 焼刃渡しは陰陽和合 露にも濡れて薄紅葉 染めていろます金色は 霜夜の月と澄み勝る 手柄の程ぞ類(たぐ)ひなき 清光りんりん 麗しきは若手の業もの切ものと四方(よも)にその名はひびきけり
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この逸話をそのまま由緒にひくのが、稲荷山山上の長者社神蹟(御劔社)です。ここには劔石(つるぎいし)と呼ばれる御神体が社殿の後ろにそびえ立っています。鍛冶屋、鋳物師、たたら製鉄などを生業とする人々と古くから密接な関係を持っているのも稲荷信仰の一面です。
京都では、11月中、方々の寺社でも行われていますが、全国から奉納された十万本にも及ぶ火焚串を焚き上げる伏見稲荷大社のお火焚きは他では見ることのできない圧倒的な規模のものです。さて今回、撮影の高橋さんと私は11月8日の伏見稲荷大社のお火焚きに詣でることができました。ここからは今年のお火焚き祭のご紹介をしたいと思います。
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まず午後1時 本殿において火焚祭が行われます。神前に神饌が供えられ、祝詞があげられ、本殿前に立てられた新藁に斎火(いみび)が着けられます。さらに神前で神楽女の舞が厳かに捧げられます。
こうして本殿祭が営まれたのち、午後2時から場所を本殿の東奥に当たるお山祭場に移して、いよいよ火焚神事が執り行われます。祭場には、井桁に組まれた3m四方、高さ1.5mの大きな火床3基が設けられており、そこに古式に則って起こした斎火がつけられます。宮司様はじめ、神職、神楽女、崇敬者らが大祓詞(おおはらえのことば)を唱え続ける中、火の立ち上がった火床に、火焚串が投じられます。
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全国から寄せられた大量の火焚串を3つの火床に入れる神職の方々は、立ち上がる炎に顔を紅潮させながら実にキビキビと手際よく、繰り返し繰り返し串を火床へと高く投げあげ入れていかれます。そして、宮司の中村陽様が、一基ずつ、清めの塩や酒などを火床に振りいれて進まれます。また、神楽女の方々が、楽の音に合わせて火床の前で鈴を振って神楽舞を奉納されます。火は、まさに罪障消滅を期す祈りに応えるように、秋空に高く燃えあがります。すべての火焚串がくべ終わるまで、大祓詞も休むことなく奉唱され続けるのです。
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お火焚き神事の後のお楽しみが、お下がりにいただくお火焚饅頭とおこしとみかんです。昔は、お火焚きの後、お火焚饅頭を近所に配ることもあったといい、また子供たちは神社や自宅で行われる神事を、意味もわからず神妙に出ていれば、必ずこのお下がりにありつけることが楽しみでもありました。京都の庶民向けのお菓子を扱う饅頭屋さんでは、11月中、このお火焚饅頭とおこしが販売されます。
今回は、伏見稲荷大社の参道にほど近い本町通りにお店を構えておられる「いなり ふたば」で「お火焚饅頭」と「柚入りおこし」を買い求めました。
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現当主の山本諭さんのお話によると「いなり ふたば」は、豆餅で有名な出町柳の「ふたば」で修行された初代の山本金八さんが、昭和8年に暖簾分けで独立されたお店だということです。
現在地には昭和30年に店を構えられたそうですが、昭和32年にはすぐに伏見稲荷大社の門前にふさわしい「いなり最中」を作られて、第14回全国菓子大博覧会で特等賞を取られています。また2代目健一さんも昭和48年に第18回全国菓子大博覧会で「おはぎ」で特等賞を取られていることがお店に掲げられた賞状で知ることができました。
諭さんによると、ご自身がこの仕事に就いた頃は、11月中は、火に関係するお仕事柄のお店などからたくさん注文があったそうですが、今は残念ながら半減しているということでした。
お火焚饅頭は、お茶席で使われるようなヤマノイモを用いた薯蕷(じょうよ)饅頭とは違う、より庶民的な小麦粉で皮を作る饅頭なのですが、「ぱさぱさした食感にならないように、タピオカでんぷんの雪餅粉を加えてみたのです。」と新しい工夫をされていることをお話くださいました。加えて「うちは初代からこの焼き印にこだわってきたのです。」と。
そうなのです。他で見るお火焚饅頭は、皮表面の宝珠の形を線で表す焼き印が用いられているのですが、「いなり ふたば」さんのものは、宝珠が浮き彫りになっています。これは一般的なものは陽印であるのに対して、陰刻で作った焼き印を用いているからできる独特の立体感なのです。この堂々とした宝珠は、なるほどまさに伏見稲荷大社門前のお火焚饅頭にふさわしいものと言えましょう。そして「皮も餡も伏見の名水をつこてますんですが」と遠慮がちに、はにかみながら、しかし確たる信念を秘めるようにお話しいただきました。ああ、持ち帰っていただくのが楽しみです。
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お火焚饅頭とおこしとみかんは、お火焚きにはつきもので、こうしたお下がりを家族でいただくという懐かしい団欒も、近年はなかなか実現しにくい生活となっています。
「いなり ふたば」さんのお火焚饅頭を早速いただきました。なるほど皮に工夫があることがよく分かる、しっとりしていて小麦粉饅頭とは思えないもっちりとした食感です。餡も程よくあっさりした甘さに炊き上げられた漉し餡で、上品なお味に仕上がっていて、しかもしっかりした焼き印のお焦げが、それに香ばしさを加えています。お火焚饅頭という比較的安価な庶民の饅頭にも手を抜くことなく、丁寧な作りを貫いておられることに、京都のお饅頭屋さん「いなり ふたば」さんの矜持を感じました。
さて、じつはもう一度夜のお稲荷さんに戻らなければならないのです。このお火焚きの夜、午後6時から伏見稲荷大社本殿の神前で行われるのが御神楽(みかぐら)です。
これは、平安時代に宮中で行われていたお火焚きを引き継ぐもので、神前に燎(にわび)を焚いて行われる神楽です。
御神楽は本歌(もとうた)・末歌(すえうた)・和琴(わごん)・笛・篳篥(ひちりき)が次々と奏でられ、それに続いて附歌が加わると、神(かん)さびた人長舞(にんじょうまい)が舞われます。
この夜、初めて臨座した私には、この静寂さとチロチロと燃える燎だけの闇の中で繰り広げられるしめやかな楽と舞に、恍惚とする思いにとらわれました。ひと飛びに時空を超えて平安朝の宮中にいるかのような厳かで古雅に満たされた世界は、これまで経験したことのないものでした。こうしたことが現代にもそのまま息づいていることに驚嘆するとともに、庶民から宮廷までの世界を内包する伏見稲荷大社の奥深さを改めて感じ入った夜となりました。
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*「瓜生通信」「京の暮らしと和菓子 #18」の一部を編集して転載しています。
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