地域の文化遺産『鎌倉の古東海道』野村朋弘

過日、瓜生歴史遺産の会にお声がけいただいて、鎌倉を巡見する機会を得た。

授業とは異なり卒業生が主体となった企画なので巡見する場所などは総てお任せしておいたところ、極楽寺近くの御霊神社と甘縄神明社を廻るという。講演の準備をしつつ、巡見先のことを調べていたところ「もしかしたら」と思ったことがあった。今回はそれを物語りたい。

鎌倉は「武家の都」としてイメージ付けられている。鎌倉をはじめとして京都、奈良と いった「古都」の歴史的風土を守るため、昭和41年(1966)に「古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法」(通称、古都保存法)が制定された。これは昭和30年代の宅地開発の波で、古都も含めて開発されていったことに危機感を覚えた文化人や市民の活動によるところが大きい。鎌倉は源頼朝が幕府を開き、鶴岡八幡宮を中心とした中世の都市が形成されたといわれている。今日、観光や見学で訪れる人々は、中世に思いを馳せて寺社と いった文化的資産を巡る。

鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』をひもとくと、頼朝が入部する前の鎌倉は「辺鄙」で、幕府が出来てから御家人達が宿館を構え、道も整備されたと記されている。現代の我々はついついそうしたイメージに引きずられてしまう。しかし今日の研究では奈良時代には、現在の鎌倉市を中心に鎌倉郡が設置され、鎌倉には郡衙が置かれていた。それに伴い、古代においても大倉観音堂、荏柄の天神、甘縄の神明社、坂下の御陵社といった寺社が建立されていた。つまり単なる東国の鄙びた一村落ではなかったことが明らかにされている。もう一つ中世都市以前の鎌倉を知るのに重要なのが「道」である。律令制によって五畿七道という行政区画が設定された。一つに東海道がある。それに伴い道路も設置された。東海道というと今日的にいえば国道一号線だろうか。東海道は古代、中世そして近世と、変更があり今日の道となっている。区別のため江戸時代の東海道は旧東海道、それ以前の東海道は古東海道などともいわれている。

さて、古代の東海道はどのような場所を通ったのか。相模国(現在の神奈川県)でいうと、足柄山を越え国府津から大磯を経由し、三浦半島の走水から海を渡って房総半島の上総国へ向かう。そのため、鎌倉を通っていたと考えられている。では鎌倉の東海道はどこに設置されていたのか。『鎌倉市史』や鎌倉市教育委員会の報告書を読むと、はじめは稲村ヶ崎から、後に極楽寺坂が切り開かれてからは、極楽寺坂を越えて甘縄に入り東に抜けていく。中世では「大町大路」や「車大路」とよばれる海岸線と平行する二本の道 が、東海道と考えられている。今日の道で該当するのは県道311号線であろう。長谷寺前から六地蔵を抜けて若宮大路に到達し、更には逗子に向かう道である。県道311号線沿いに は、御霊神社や甘縄神明宮、更には元八幡、八雲神社など、中世以前の創建にかかる寺社が建ち並ぶ。この東西を繋ぐ東海道こそが古代に於ける鎌倉のメインストリートだったといえよう。

都市は開発されていくにつれて新たに道が整備されて昔の姿が見えづらくなる。古都保存法によって維持される古都鎌倉もまた、古代の姿を中世の開発によって変化され、更には戦国の荒廃と近世の再建を経たものといえるだろう。地域の文化遺産には、積み重ねられた歴史の層がある。文献史料や考古遺物によって一つ一つ丁寧に層を掘り下げて、当時の姿を知ることが、文化遺産のみならず地域史を知る術といえるだろう。冒頭に述べた「もしかしたら」というのは、まさに古代の鎌倉の姿である。偶然かも知れないがスクーリング科目の鎌倉文化論とは違った鎌倉を見ることができたと思う。

関連する科目:鎌倉文化論

極楽寺坂にある史跡指導標。残念ながら古東海道のことは紹介されていない。

*本稿は『雲母』 2019年9・10合併合、学部コース・大学院通信 ○芸術学科のページに掲載された『地域の文化遺産「鎌倉の古東海道」』野村朋弘(歴史遺産コース教員)の一部を編集し掲載しています。

 

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